日本の技一覧

日本の技

当財団発行の月刊誌「生涯学習情報誌」から、日本の伝統的な美意識を大切にした、「日本の技」を毎号連載しています。

陶芸 井上萬二

【2020年2月号 日本の技 インタビュー30】
陶芸 井上萬二

白磁を極めて、なお新境地に挑み続ける

人間国宝に認定された井上萬二さんは、90歳になった今も新しい表現にチャレンジしている。教え子はすでに500人。アメリカでも150人を超え、日本の伝統工芸を海外に広めた第一人者である。

木工芸 須田賢司

【2018年5月号 日本の技 インタビュー29】
木工芸 須田賢司

伝統が行き着く先のモダンを目指して

祖父の代から3代続いてご活躍されている須田賢司さん。作品作りのために工房を東京から群馬県に移し、木工から漆、螺鈿(らでん)、金工まで、繊細な技術で独自の作風を磨き上げる。2014年に重要無形文化財(木工芸)保持者に認定された。

ガラス(パート・ド・ヴェール) 石田知史氏

【2018年2月号 日本の技 インタビュー28】
ガラス(パート・ド・ヴェール) 石田知史氏

西洋の技法と和の美が生み出す鋳込み硝子

パート・ド・ヴェール(鋳込み硝子)の起源は古代メソポタミアにまで遡る。その後、一端衰退したが、19世紀末のアール・ヌーボー期のフランスで蘇った。石田知史(さとし)氏のご一家は、親子で「和のパート・ド・ヴェール」を追求している。

七宝 吉村芙子氏

【2018年1月号 日本の技 インタビュー27】
七宝 吉村芙子氏

七宝に新たな表現を生み出す数々の独自技術

吉村芙子(よしむらようこ)氏は師につかず、独学で七宝に取り組んだ。染織、陶芸、ガラスなど他分野の技法を積極的に取り入れる一方で、古い泥七宝の技法も活かし、自由で斬新な七宝表現を生み出している。

漆芸(螺鈿(らでん)) 中條伊穗理氏

【2017年12月号 日本の技 インタビュー26】
漆芸(螺鈿(らでん)) 中條伊穗理氏

失敗を恐れず、伸びやかさを大切にして表現したい

螺鈿は、奈良時代に遣唐使が中国から持ち帰ったといわれ、長い歴史を誇る伝統工芸である。その螺鈿に身近な動植物などのモチーフで新風を吹き込んでいるのが、中條伊穗理(なかじょういおり)さんだ。

金工 奥村公規氏

【2017年10月号 日本の技 インタビュー25】
金工 奥村公規氏

工夫を重ね、おおらかな表現を目指していく

見た目は漆の木箱のようだが、触ると金属とわかる奥村公規さんの作品。鍛金や象嵌(ぞうがん)の技術を高めつつ、日本人が金属とどう向き合ってきたのか、古の工人に思いを馳せながら作る。

日本刺繍と仕覆 竹花万貴氏

【2017年9月号 日本の技 インタビュー24 後編】
日本刺繍と仕覆 竹花万貴氏

一幅の絵になるよう、季節感を意識して刺繍する

前編での彫金帯留に続き、後編では竹花氏の日本刺繍と古布で作られた仕覆(しふく=茶の道具や器などを包む布製の袋)をご紹介する。古い帯や着物が、竹花氏の技術と感性により、生き生きとよみがえる。和装に新たな楽しみが加わる瞬間だ。

金工 竹花万貴氏

【2017年8月号 日本の技 インタビュー24 前編】
金工 竹花万貴氏

虫や鳥の帯留で、着物に独自の物語を生み出す

古い着物と帯に日本刺繍で命を吹き込み、ユニークな彫金帯留で独自の自然観を表現する竹花万貴氏。作品はまるで着物を舞台にして、一つの物語がつくられているようだ。今号の前編では、竹花氏創作の彫金帯留に焦点を当てて紹介する。

元文化庁長官 近藤文化・外交研究所代表 近藤誠一氏

【2017年7月号 日本の技 インタビュー23】
元文化庁長官 近藤文化・外交研究所代表 近藤誠一氏

「文化を日本外交の中心に置くべき」を推進し続けて

外交官で文化庁長官も務めた近藤誠一氏は、一貫して「文化を日本外交の中心に置くべき」と言い続け、文化外交を推進してきた。文化庁長官を退官後は、近藤文化・外交研究所を設立。海外での幅広い人脈を活かして、日本の伝統工芸の認知度向上に尽力している。

人形 岩田宏子氏

【2017年5月号 日本の技 インタビュー22】
人形 岩田宏子氏

47歳の遅いスタートから、独自の技を持つ工芸作家に

今にも動き出しそうな岩田宏子さんの木彫人形。本格的な人形制作は47歳になってからだった。遅いスタートにもかかわらず資質を磨き、伝統工芸人形展や日本伝統工芸展でたびたび入賞するほか、海外でも高く評価されている。

染織 小倉淳史氏

【2017年4月号 日本の技 インタビュー21】
染織 小倉淳史氏

絞りには多様性があり、表現の可能性は無限

小倉家は京都の染織工芸を代表する家で、5代目小倉淳史さんの父・建亮(けんすけ)さんは、江戸時代に消えた技法「辻が花」を復元した。淳史さんは、父から受け継いだ技法と重要文化財の復元で磨いた技術で、新たな絞り染の可能性に挑んでいる。

人形(博多人形) 中村信喬氏

【2017年3月号 日本の技 20】 [財団助成事業報告]
パリ8区区庁舎における展覧会

継続的交流を通して、双方向の学びの深まりに期待

〈技collection〉(芝本久美子代表)は、日本の伝統文化や伝統工芸品を未来に繋げていく活動をする非営利団体。2010年から毎年パリで展覧会を行っているが、2016年はパリ8区区長から招へいされ、在仏日本大使館の後援を得て開催した。こうした芝本氏らの活動を、生涯学習開発財団が評価した助成事業でもある。

人形(博多人形) 中村信喬氏

【2017年2月号 日本の技 インタビュー19 後編】
人形(博多人形) 中村信喬氏

貧しくてもその時代の最高の仕事をする

地元、九州北部からヨーロッパに派遣された天正遣欧少年使節の人形を作り続けている中村さん。作品はローマ法王にも献上された。人形には過去、現在の人々の祈りを現し、未来に伝えたいと話す。

人形(博多人形) 中村信喬氏

【2017年1月号 日本の技 インタビュー19 前編】
人形(博多人形) 中村信喬氏

人のために仕事をすると作品に魂が宿る

中村信喬(しんきょう)さんは作品をつくるとき、自我を排し、人のために仕事をすることを心がけるという。巨大なモニュメントなども手がける中村さんの思いや背景、中村家の仕事に取り組む姿勢を、2回にわたって紹介する。

陶芸 福島善三氏

【2016年12月号 日本の技 インタビュー18】
陶芸 福島善三氏

たくさんの試行錯誤から生み出される独自の作風

17世紀頃から続くとされる福岡県の小石原焼。そこに代々伝わるちがいわ窯の16代目当主、福島善三さんは、原材料のほとんどを小石原で調達し、釉薬も独自に作成、すべての工程を自ら行う。その芸術性に優れた作品は、高い評価を得ている。

木工芸(江戸指物) 島崎敏宏氏

【2016年11月号 日本の技 インタビュー17】
木工芸(江戸指物) 島崎敏宏氏

指物の技術は見えないところに詰まっている

金釘を使わず、木の部材を組み合わせることで家具や箱物を作る指物。組手、継手、仕口といった接合部が技術の主体だが、完成品からはこうした部分は見えない。江戸指物は、桑材の美しい木目をうまく活かしているのが特徴だ。

人形 杉浦美智子氏

【2016年10月号 日本の技 インタビュー16】
人形 杉浦美智子氏

人形づくりの魅力は、人体を使いこなした表現にある

杉浦さんの作品「船出」は、第63回日本伝統工芸展で「東京都知事賞」を受賞した。その作品は、人形づくりの伝統的技法である桐塑紙貼(とうそかみばり)で成形したものに、染色した極薄の和紙を貼って仕上げる。

陶芸 寺本 守氏

【2016年9月号 日本の技 インタビュー15】
陶芸 寺本 守氏

作品のベースは、変化する自分の生き様

茨城県笠間市に窯を置いている寺本さんは、笠間の形式にとらわれない気風が自分に合っていると話す。上絵に銀彩を施した躍動的な作品や、クリーム色の縞壺など、味わい深い独特の世界を表現している。

漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

【2016年8月号 日本の技 インタビュー14】
染職 平山八重子氏

機(はた)のリズムと一体になって織り上げる

微妙に違う同系色の糸を何色も使って、独自の世界を織り上げる平山さん。その作品は、まるで波や風、季節の息吹を表現しているかのようだ。国産の繭を使う糸づくりからお話しを伺った。

漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

【2016年7月号 日本の技 インタビュー13-2】
漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

漆器は暮らしの中で使われてこそ完成する

国宝や重要文化財の修理も依頼される室瀬さんは、何百年も前の仕事から学ぶことは多いと言う。その一方で、漆器が現代の生活の中でもっと使われるように、啓蒙活動も熱心に行っている。

漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

【2016年6月号 日本の技 インタビュー13】
漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

日本人の美学が凝縮されている蒔絵

日本を代表する工芸品として海外でも高く評価されている蒔絵。その第一人者で人間国宝に認定されている室瀬和美さんの工房を訪ね、伝承技術を独自の感性で表現している研出蒔絵の魅力や国内外への取り組みなど2回に分けて紹介する。

染織(江戸小紋) 小宮康正氏

【2016年5月号 日本の技 インタビュー12】
染織(江戸小紋) 小宮康正氏

色落ちしにくい着物として生き残った江戸小紋

小宮染色工場の三代目小宮康正さんは、伝統技術を継承しつつ、常に改良の精神をもって江戸小紋のクオリティを高めてきた。「良いなあ」と思われるものづくりの姿勢は、いま二人の息子にも継承されている。

鍛金 大角幸枝氏

【2016年4月号 日本の技 インタビュー11】
ガラス工芸 イワタ ルリ氏

鋳込みの技術をガラスに活かす

幼いころから身近でガラスに親しんできたイワタルリさん。祖父の代から続く日本のガラス工芸の技術を単に継承するだけでなく、鋳造の技法を取り入れた新たな試みで存在感のある作品づくりを展開している。

鍛金 大角幸枝氏

【2016年3月号 日本の技 インタビュー10】
鍛金 大角幸枝氏

伝統技術は、生活の中で使われてこそ意味がある

「鍛金」で女性初の人間国宝に認定された大角幸枝さん。道具にこだわり、鍛金、彫金、布目象嵌という3つの技術を組み合わせて自分の形を表現、金工に対する評価の高い海外で日本の伝統工芸を広めている。

截金 江里朋子氏

【2016年2月号 日本の技 インタビュー9】
截金 江里 朋子氏

専門職の人が作ったものに加飾するので、より良い作品に仕上げていく責任がある

仏教伝来と共に大陸から日本に伝わった截金(きりかね)。その技術を伝承してきた数少ない截金師の一人である母親の技術を受け継ぎ、工芸における独自の創作活動を展開している江里朋子さん。次代に向けた新たな伝道師として、作品作りに挑戦している。

竹工芸 藤沼

【2015年12月号 日本の技 インタビュー8-2】
竹工芸 藤沼 昇氏

高い志で次世代に文化を引き継ぎたい

工芸家としての階段を一気に駆け上がった藤沼昇さん。苦しみの中で「気」と出会い、壁を乗り越え、いま、次世代に伝統文化を継承するため、好奇心を失わず作品作りに挑戦し続けている。

竹工芸 藤沼昇氏

【2015年11月号 日本の技 インタビュー8】
竹工芸 藤沼 昇氏

作り手の人間性がダイレクトに表れる竹工芸

藤沼昇さんは、竹工芸で人間国宝に認定されているが、日本国内で作品に出会える機会はなかなかない。作品の90%以上が海外に渡っているからだ。藤沼さんの転機や、その作品の魅力を2回に分けて紹介する。

漆芸 小森邦衞氏

【2015年10月号 日本の技 インタビュー7】
漆芸 小森邦衞氏

漆は器の骨格をよく理解して塗る

輪島塗の新境地を開いたとして、2006年に人間国宝に認定された小森邦衞さん。日本を代表する美術工芸品である輪島塗は、その美しさや何重にも漆を塗り重ねた堅牢さが人を魅了する。

陶芸 岩永 浩氏

【2015年9月号 日本の技 インタビュー6】
陶芸 岩永 浩氏

土も釉薬も道具も自分で作る

有田でも独自の染付作家として知られる岩永浩さんは、すべての材料を自分で作り、すべての工程を自分の手で行う。水墨画の濃淡を応用した染付は、繊細で温もりがあり、人気が高い。

陶芸 中尾恭純氏、中尾純氏

【2015年8月号 日本の技 インタビュー5】
陶芸 中尾恭純氏、中尾純氏

父子で追求する白磁・青白磁の美

佐賀県JR有田駅近くの中仙窯は中尾恭純さんと弟の英純さん、そして恭純さんの長男純さんで運営している。恭純さんは白磁に色鮮やかな象嵌が特徴的で、純さんは白磁と青白磁の美を追求している。

漆芸 吉野貴将氏

【2015年7月号 日本の技 インタビュー4】
漆芸 吉野貴将氏

漆の偶像作りで文化の継承に貢献

日本を代表する伝統工芸である漆芸。吉野貴将氏はその高い技術を受け継ぎつつ、器ではなく「偶像」制作を通してメッセージを発している。

硯(すずり)制作 雨宮弥太郎氏

【2015年6月号 日本の技 インタビュー3】
硯(すずり)制作 雨宮弥太郎氏

現代の造形として大きな可能性を持つ硯

雨宮弥太郎氏は、元禄3年(1690年)から続く雨端硯本舗の13代目。伝統と和の感性を踏まえながらも、斬新なイメージの硯を提案し、工芸展等で高い評価を得ている。

友禅染め 坂和 清氏

【2015年5月号 日本の技 インタビュー2】
友禅染め 坂和 清氏

染色の枠をこえてチャレンジしていく

友禅作家・坂和清氏の工房は、新宿区の神田川近くにある。そこは江戸時代に京都から来た着物職人が住み着き、東京友禅の産地として今に至っている。

陶芸 前田正博氏

【2015年4月号 日本の技 インタビュー1】
陶芸 前田正博氏

洋絵具で塗り重ねた絵画のような色絵磁器

伝統的な陶芸の世界に、自由な発想で新風を送る前田正博氏。ボランティア活動にも熱心な氏の工房を訪れました。

30. 陶芸 井上萬二

日本の技

インタビュー30 陶芸 井上萬二 インタビュー 30
陶芸 井上萬二

白磁を極めて、なお新境地に挑み続ける白磁を極めて、なお新境地に挑み続ける

人間国宝に認定された井上萬二さんは、90歳になった今も新しい表現にチャレンジしている。教え子はすでに500人。アメリカでも150人を超え、日本の伝統工芸を海外に広めた第一人者である。

聞き手上野由美子

陶芸 須田賢司
井上萬二氏
1929年
佐賀県有田町に生まれる
1958年
有田窯業試験場にて磁器の研究開始
1968年
日本伝統工芸展初入選。以後毎年入選
1969年
ペンシルバニア州立大学で5カ月間作陶指導
1971年〜
日本陶芸展入選、同カナダ、アメリカ巡回展、南米巡回展招待出品
1979年
労働大臣表彰(現代の名工)
1987年
日本伝統工芸展文部大臣賞受賞(文化庁買上げ)
1995年
ドイツにて個展、以後、ハンガリー、モナコ、ポルトガル、 ポーランド、ニューヨーク、香港などにて個展開催
1995年
重要無形文化財「白磁」指定
1997年
紫綬褒章受章
2003年
旭日中綬章受章

好奇心とチャレンジ精神

――90歳の今も新しい作品を出し続けていますが、井上先生の作品作りの源はなんですか。

 好奇心です。百貨店や工芸会の展覧会、講演などで全国を回る際、必ずその土地の護国神社に行きます。その地方で有名な人の碑文を読み、名文があればノートに控え、神社仏閣を巡っては自分の美意識を高めます。今でも年に数回は必ず海外に行き、異なった文化からもアイデアを取り入れます。

 銀座和光での個展が今年で43回目を迎えましたが、同じ会場で毎年続けるというのは非常に難しいんです。一度出した作品ではお客さんが楽しめませんから、毎年新しいものを提供しないといけない。チャレンジ精神とクリエイティブ精神を持って、挑戦し続けています。

大成するのは努力し続ける人

――陶芸の道を志したきっかけは。

 父親が有田の窯元でしたが、自分がやろうとは考えませんでした。私の少年時代は大東亜戦争の最中。軍事工場では勉強できないので、早く軍の学校で勉強したいと考え、15歳の時に海軍飛行予科練習生になりました。足掛け2年、過酷な訓練の日々でしたが、毎日勉強できるというのは喜びでした。一人前のパイロットになる前に終戦を迎え、故郷に帰ると、親に窯元を継いでほしいと言われました。

 しかし、やるなら徹底してやりたいと修練に出て、7年間無給でひたすら修練を積みました。戦後の世の中が少し豊かになってきて、みんなは遊んでいる。修行をいつまで続けるか悩んでいました。しかし、父親の勧めで入った柿右衛門窯で、ろくろ師として名高い初代奥川忠右衛門の技に出合い、この人に近付きたいと思いました。そこでも3年間下積みして、10年経つと十二分に飯を食える腕になりました。

――でも、すぐには独立されなかったのですよね。

 そこで満足せず、さらに技術を磨きたいと思い、有田にある佐賀県立窯業試験場という焼き物の研究機関に入りました。制作のノルマはなく、陶土や釉薬の研究、築炉、焼成などを徹底的に研究しながら、13年間勤めました。

 窯業試験場では、有田焼の後継者育成のために研修生制度を作り、そこから500名ほどが巣立ち、日本中で活躍しています。努力していれば誰の人生においても運は必ずやって来ます。運が来たらさらに努力しなければならない。育成をして感じたのは、不器用ではダメだけど器用過ぎてもダメということ。器用な人は努力が足りません。普通の人で努力する人が大成します。

アメリカにも弟子がたくさん

――アメリカの大学でも指導されていますが。

 1969年にアメリカのペンシルバニア大学から、伝統工芸の指導依頼がありました。期間は半年。月給が2,000ドル(当時1ドル360円だったので72万円)ももらえるのと、何よりアメリカへ行ける喜びがありました。いちばんの難関は、通訳がいないこと。渡米する前の3カ月間、単語を一日に5、6個ずつ覚えました。自分で計画を立て、日本から一人で3回も飛行機を乗り継ぎ、迷わずペンシルバニアにたどり着いたのは、今考えても我ながら感心します。

 講義はもちろん英語です。毎夕、宿舎のベッドに寝転んで明日教える学科の言葉を勉強し、発音などは学生たちに教わりました。アメリカの学生は、日本人ではありえませんが、行儀悪くテーブルに腰かけて授業を受けたりするので、心を広く持って接しなくてはなりませんでした。しかし、教えてもらうことが当たり前のマンネリ化した日本の学生と違って、彼らは本当に熱心に学んでくれました。そうした人間同士の付き合いも含め、充実した毎日でした。アメリカには今でも150人以上の弟子がおり、30回は渡米しています。

 日本へ戻って1年間公務員として働いて、ある方から資金援助を受けて窯を開きました。徹底的に技を磨いてから独立したので、焼き物の世界では何も恐くないという気持ちでした。

――陶磁器以外の日本の伝統文化を発信されてますね。

 5カ国で2年に一回、日本伝統工芸の展覧会をしています。最初のハンガリーでは、280名もの日本人を連れて訪れました。そのうち180人は女性だったので、日本の良さを伝えるために着物でハンガリーの石畳の上を歩いてもらいました。茶道や華道の先生、和楽器の奏者たちもおり、それぞれが技術を披露しました。

 ニューメキシコ州の大学でも指導していますが、必ず20~30人の観光者を連れて行き、日本人とアメリカ側の先生や生徒たちを集めて宴会をするという、楽しい交流も毎年やっています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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29. 木工芸 須田賢司

日本の技

インタビュー29 木工芸 須田賢司 インタビュー 29
木工芸 須田賢司

伝統が行き着く先のモダンを目指して伝統が行き着く先のモダンを目指して

祖父の代から3代続いてご活躍されている須田賢司さん。作品作りのために工房を東京から群馬県に移し、木工から漆、螺鈿(らでん)、金工まで、繊細な技術で独自の作風を磨き上げる。2014年に重要無形文化財(木工芸)保持者に認定された。

聞き手上野由美子

木工芸 須田賢司
須田賢司氏
1954年
東京北区に生まれる
1973年
東京都立工芸高等学校卒業。以後、父・桑翠に木工芸を、
    外祖父・山口春哉に漆芸を学ぶ
1975年
第22回日本伝統工芸展 初入選
1985年
第2回伝統工芸木竹展 文化庁長官賞受賞
1992年
工房を群馬県甘楽町に移転
2003年
群馬県総合表彰受賞
2006年
第53回日本伝統工芸展 朝日新聞社賞受賞
2008年
第55回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞受賞
2010年
紫綬褒章受章
2014年
重要無形文化財「木工芸」保持者に認定

木の仕事場として最適な地へ

――なぜ東京から群馬県の甘楽町に移ったのですか。

 この仕事は、日常から材料となる多種多様な木を手元に置いて、じっくり見ながら考えることが大切なのです。そうしたことが自然にできる広い場所であること、また仕事場として乾燥した環境にあること。その2つの条件が満たされていたのが甘楽町でした。

――親の仕事を見て自然にこの道に入ったのですか。

 そうですね。幼いころは父の仕事場が私にとって唯一の遊び場でした。仕事をする父の指先を見ながら、木の端材を電車に見立てて遊ぶなど、日々の暮らしの中でその生き方を身に着けていったような気がします。祖父は、何か手に職をつけようと偶然木工芸に出逢い、父はその長男として後を継ぐのが当然だったのでしょう。3代目の私は、後を継げとは言われなかったけれども、自らこの道を選んだ、言わば必然だったのかなと、最近は感じています。

祖父や父の生き方を工房の名に込める

――お父様やお祖父様から影響を受けたことは。

 祖父・桑月は宮大工から出発し、指物師に転じた人でした。その正統的な木工技術を受け継いだ父・桑翠は戦前、好事家たちのために調度品を作っていたのですが、戦後は彼ら富裕層の没落により仕事が激減しました。元々、学究肌だった父は、職人に甘んじることなく、木工藝家としての道を歩み始め、正倉院以来、連綿と続く正統的な木工藝を息子である私に伝えてくれました。

 私は常々、「工芸=クラフトではない」と話すのです。作品にしても家具や調度品などの実用品に留まらず、むしろ鑑賞することに重きを置き、それを手にした人が心を落ち着かせることができる。日常の道具に機能以上の美を見いだし楽しめる。それこそが日本の工藝であると考えます。長い過去の伝統を背負いながらその結果としての最先端。トレンドではなくモダン。それが私の目指す木工藝の境地なのです。

 その思いは『清雅』の名に込められています。『清』は木工藝一筋だった父のピュアな生き方として自らの胸に刻み、『雅』は季節ごとに軸を替え、花を生け、茶を嗜む父の後ろ姿を、雅味のある生き方として捉えました。この2つの精神を作品に反映していくことが、今の私の創作活動の礎となっています。

大切な木から引き出す瑞々しい表情

――どの作品も木目が素敵ですね。

 とりわけ小箪笥のような小さいものは、木目が作品全体の表情を決定づけます。大好きな漢詩から名付けた「水光接天」は、銘木店の片隅で埃をかぶっていた栃の木との出会いからでした。試しに少し削ってみると、まるで月に輝く水面のような杢が現れたのです。さらに黒漆で仕上げをすると、まさに輝く水面が現れました。稜線には直径1㎜程の白い螺鈿を埋めた漆黒の柿材をあしらい全体を引き締めました。この種の箪笥に不可欠な蝶番や鍵のような銀金具は、杢と競合しないように努めてシンプルに仕上げました。このように自作の金具類をつけていることも、私の作品の大きな特徴です。

 「陸離」では、指物のセオリーから逸脱した試みをしています。中央の金具の左右で材の木目の向きを変えて配し、各面の光沢が見る向きによって違ってくるという効果が得られました。木目に沿った縦方向と横方向では木の収縮率が違うため仕事としては難しいのですが、経験上この楓は寸法安定性に優れていることを知っていたのであえてトライしました。

――材料の木は何年くらい乾燥させるのですか。

 最低10年以上ですね。単に乾かすというよりも、ワインを熟成させるような感覚です。木を切るのは11月から2月くらいの、木が冬眠状態にある時期が良いとされています。

――技術の継承はどうされていますか。

 そういう意味でも、この清雅はあるのです。今年の1月から、40〜50代の木工藝家5名と勉強会を始めました。彼らと、木工藝の普及も兼ねて、日本橋の三越でグループ展を開催することになっています。 清雅のギャラリー公開は、土・日の10時から16時です。週末に気軽に立ち寄っていただけたらうれしいです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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28. ガラス(パート・ド・ヴェール) 石田知史氏

日本の技

インタビュー28 ガラス(パート・ド・ヴェール) 石田知史 インタビュー 28
ガラス(パート・ド・ヴェール) 石田知史

西洋の技法と和の美が生み出す鋳込み硝子西洋の技法と和の美が生み出す鋳込み硝子

パート・ド・ヴェール(鋳込み硝子)の起源は古代メソポタミアにまで遡る。その後、一端衰退したが、19世紀末のアール・ヌーボー期のフランスで蘇った。石田知史(さとし)氏のご一家は、親子で「和のパート・ド・ヴェール」を追求している。

聞き手上野由美子

ガラス(パート・ド・ヴェール) 石田知史
石田知史氏
1972年
京都に生まれる
1994年
東京ガラス工芸研究所パート・ド・ヴェール専科卒業
1995年
アジア、中近東、中南米、N.Y.などを研究のため旅する
1998年
「石田亘・征希・知史パート・ド・ヴェール3人展」初開催
2003年
第50回日本伝統工芸展 朝日新聞社賞受賞
2006年
第53回日本伝統工芸展 日本工芸会総裁賞受賞
2007年
京都美術工芸新鋭選抜展 最優秀賞受賞
2011年
第58回日本伝統工芸展 鑑査委員
2013年
第33回伝統文化ポーラ賞 奨励賞受賞
2015年
「菊池寛実賞 工芸の現在」選定作家として出品

まずはご両親が手探りで試作を重ねる

――ご両親がパート・ド・ヴェールを始めたのですね。

 父・亘(わたる)が京都の室町や西陣で染織図案家として活躍していた時に、アール・ヌーボーの流れをひく作家・アルメリック・ワルター氏の作品に出会ったのが始まりです。その裸婦像の滑らかなガラスの質感に、父は感動したそうです。1985年から、父と母・征希(せき)によるパート・ド・ヴェールの研究が開始されます。実はアール・ヌーボー期に蘇った際には、作家が技術を秘匿したため、再び途絶えてしまったのです。確固たる技法が伝承されているわけではなく、技術的に不明な点が多くありました。

 自宅にガラス工房を構え、父はアール・ヌーボー期に作られたランプを真似し、茶道をやっていた母は茶碗作りから始めましたが、最初は全く手探りだったそうです。アール・ヌーボー期では色調が暗く、厚くて重量感のある置物や器が多かったのですが、私の両親は、明るい白を基調とした、新しいパート・ド・ヴェールの制作に成功しました。1990年代になると伝統工芸展で受賞するなど、現在の作品の素地ができました。 

外から見つめて気づいた日本独自の美意識

――知史さん独自の味わいはどのようにして。

 両親の仕事を見ながら成長した私も自然とガラスの道に進んだわけですが、ガラス作品をアートとして捉えるか、工芸として捉えるか、その狭間で悩んでいました。そこで25〜26歳の頃、海外放浪の旅に出たのです。アジア、中近東、中南米、アメリカへと美術研究の旅を続けました。不思議なもので、各国の民族ごとに作られたものに触れて、外から日本を見つめると、かつて見た正倉院御物や漆器、陶器など日本の工芸品の美しさを自然に受け入れることができたのです。日本人が昔からずっと作ってきた伝統工芸に、日本人気質とか日本独自の美意識とかを感じました。この時の気づきが本格的に工芸作家を目指す原点となります。

 京都という土地柄も影響しています。四季の自然が残り、時間もゆるやかで、自分と向き合えるのです。繊細なモノ作りが多く根付いていて、自分も「和のパート・ド・ヴェール」を目指し、情緒や品格といった日本伝統の美的エッセンスを意識しながら、静謐なるものの持つ美しさを探求していこうと思っています。

多くの工程があり、完成までに時間がかかる

――制作工程のポイントを教えてください。

 デザインが決まったら石膏や粘土で原型をつくり、耐火石膏で型を取ります。そこに細かい絵柄や紋様を彫り込んでいきます。たとえば「筥 湖上夕照」は、ブルーやグリーンの細い線が特徴ですが、これは石膏の型に彫った線が立体的なガラスの凸線として現れたものです。絵柄を彫ったら、着色部分に色ガラスの粉を入れ、ガラスの粉を糊で練ったものを型に詰めて焼成します。熱で溶けたガラスが外型と中型の隙間の隅々まで行き渡るよう、800~900℃のピーク時に電気炉を開けて調整する作業も大事です。ガラスの粉や着色のための色ガラスが発泡しやすいなど、まだまだ発展途上の技術で、課題を解決しながら取り組む日々が続いています。

 徐冷後に丁寧に型を壊して本体を取り出し、磨いて仕上げるのですが、金はその後に着色し、もう一度600℃くらいで焼成するんです。学校でガラスを学んでいた頃、吹きガラスなら1日に何個でもできるので、1つの作品に何か月もかかるパート・ド・ヴェールとのギャップに悩んだこともあります。

――江里朋子さんとのコラボが何点かありますね。

 初めてなのですが、パート・ド・ヴェールの愛らしさと截金の極細の線や模様が調和して、「一人の作品のように見える」と来場者からは言われます。どちらも古代に生まれて世界に広がった技術で、そこに日本的美意識を追究しているという共通点があります。

――古代ガラスを参考にされることもありますか。

 各国の伝統的な紋様を取り入れて世界観を出すことはあります。青ガラスのアメンホテプ3世とされる顔の一部を見たときは、参考というよりも、神がかったような人智を超えた凄みを感じましたね。

聞き手:上野由美子(写真左)
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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27. 七宝 吉村芙子氏

日本の技

インタビュー27 七宝 吉村芙子 インタビュー 27
七宝 吉村芙子

七宝に新たな表現を生み出す数々の独自技術七宝に新たな表現を生み出す数々の独自技術

吉村芙子(よしむらようこ)氏は師につかず、独学で七宝に取り組んだ。染織、陶芸、ガラスなど他分野の技法を積極的に取り入れる一方で、古い泥七宝の技法も活かし、自由で斬新な七宝表現を生み出している。

聞き手上野由美子

七宝 吉村芙子
吉村芙子氏
1940年
神奈川県鎌倉市に生まれる
1959年
七宝制作の道に入る
1975年
第3回リモージュ国際七宝芸術展入選(フランス)
1976年
第1回個展開催(以後国内外で多数開催)
1977年
第24回日本伝統工芸展 初入選
1993年
世界の七宝作家23人展(フランス)
1994年
第41回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞 泥釉有線七宝花瓶「花暦」
1995年
第42回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞 泥釉有線七宝合子「花時めく」
2003年
第23回伝統文化ポーラ賞 優秀賞
2006年
グルジア国際七宝展入賞
2014年
日本伝統工芸展60回記念〈工芸からKOGEI〉に出品
現在
日本伝統工芸展特待者、NPO法人日本七宝会議理事長

誕生日の贈り物に心を動かされ七宝制作へ

――独学だったそうですが、七宝との出会いは。

 中学生の時、父から誕生日に七宝焼の指輪をプレゼントされたのです。とにかく綺麗で、誰がどうやってこんな美しいものを作っているのだろうかと、七宝への好奇心が沸き起こったのです。

 数年後、藝大に進んだ友人が授業で作った七宝焼を持っていたので、とっ捕まえて根掘り葉掘り聞いて、まずは道具と素材を揃えることから始めました。専門店でバーナー、ふいごなどを購入。釉薬の材料は父が輸入してくれて、乳鉢ですり潰して粉状にしました。とにかく何度も何度も焼いて、何度も何度も失敗しました。先生がいなかったので毎日様々な方法を試みました。この時期の姿勢が、染織や陶芸、ガラス工芸など他の分野の技法を取り入れた私独自の作風につながったと思います。

――そうした独自技術は作品にどのように生かされていますか。

 美術評論家や七宝愛好家からも「どうやったの?」とよく聞かれます。通常は有線七宝といって、0.2〜1.5ミリ幅の帯状の銀を立てて貼って、囲まれたエリアに単色の釉薬を盛っていきます。私が開発した友禅七宝は、調合した中間色の釉薬を用い、下地に筆で直接絵柄を描いて、友禅染めや水墨画のような濃淡を出します。有線でも私の作品では、花びらなど数千ピースの銀線のパーツを用いることもあります。一つひとつ曲げてピンセットで貼っていくので根気が要ります。

 泥七宝は光沢を押さえた釉薬で、落ち着いた表情を出しています。釉薬の質が悪かった昔の作風を、逆に味わいとして活かしました。他にも、わざと生焼けにしたり、銀粘土や箔を使ってみたり、最近は金の雲母とベネチアガラスを用いてみたりと、遊びながら実験しています。

パリ市長に手紙を出して実現したお城での展覧会

――特に海外で評価され活躍されていますね。

 七宝制作が軌道に乗ってきた1970年代に、パリやリモージュに行って、作品展やお店をたくさん見ていたのですが、当時パリ市長だった、後の大統領シラク氏に手紙を書いたのです。そうしたらブローニュの森のお城で展覧会ができることになり、大盛況でした。それがきっかけで北京にも呼ばれ、100人の作家に声をかけて企画。その後も、カナダ、アルゼンチン、アメリカなどに呼ばれ、出展や個展をやりました。今年4月には台湾で、日本、アメリカ、中国を加えた4か国の作家展を開催する予定で、審査員を依頼されています。

人とのつながりで磨く高いオリジナリティー

――七宝とは思えない作風の数々に引き込まれます。

 リモージュに出すときに言われたのは、「日本人にしか作れないものを出してほしい」ということでした。国内でも三越や和光で個展をさせていただいて、「なぜ私に声をかけてくださるんですか」と聞いたら、「他の人がやってないことをやっているからですよ」と言われました。私の場合は、先生につかないで自由にやったことが良かったのでしょう。

 先生に教わる代わりに、人とのつながりでたくさんのことを学びました。私の作品を使ってくださって、展覧会を15年支援してくれているお客様がいますが、工芸に詳しくいろんな質問をされます。常に勉強しておかなくてはいけないし、人に伝える力もつきました。並河靖之さんの作品の復元を頼まれたときも、特殊なカメラで並河さんの作品を見たらすごいんです。当時は電気炉がなく炭火で焼成していた頃なのに、銀線は細く0.3ミリくらいで、細かい絵柄のところに100色くらい使っていました。仕事からも学んでいます。

――若い人の育成はどうされていますか。

 私の父はものづくりの道に進みたかったけど叶わなかったことから、私に対してすごく支援してくれました。今度は私が若い人を支援していかなければと思っています。私が理事長を務めている日本七宝会議は、2007年にNPO法人化して、主催する「国際七宝ジュエリーコンテスト」は今年で31回を数えます。若い人が、人とつながっていける機会を提供したいです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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26. 漆芸(螺鈿らでん) 中條伊穗理氏

日本の技

インタビュー26 漆芸(螺鈿(らでん)) 中條伊穗理氏インタビュー 26
漆芸(螺鈿(らでん)) 中條伊穗理氏

失敗を恐れず、伸びやかさを大切にして表現したい失敗を恐れず、伸びやかさを大切にして表現したい

螺鈿は、奈良時代に遣唐使が中国から持ち帰ったといわれ、長い歴史を誇る伝統工芸である。その螺鈿に身近な動植物などのモチーフで新風を吹き込んでいるのが、中條伊穗理(なかじょういおり)さんだ。

聞き手上野由美子

漆芸(螺鈿(らでん)) 中條伊穗理氏
中條伊穗理氏
1966年
神奈川県に生まれる
1992年
石川県立輪島漆芸技術研修所専修科卒業
1993年
第10回日本伝統漆芸展初入選 以後21回入選
1995年
石川県立輪島漆芸技術研修所蒔絵科卒業
1996年
重要無形文化財(螺鈿)保持者北村昭斎氏に師事(〜1999年)
2000年
第17回日本伝統漆芸展 朝日新聞社賞
第47回日本伝統工芸展初入選 以後12回入選
2007年
第47回伝統工芸新作展(現 東日本伝統工芸展)初入選 以後9回入選
2010年
第28回日本伝統漆芸展 輪島漆芸美術館賞
2011年
第29回日本伝統漆芸展 朝日新聞社賞
2012年
第52回東日本伝統工芸展 日本工芸会東日本支部賞
2016年
第33回日本伝統漆芸展 輪島漆芸美術館賞
2017年
築地久弥・中條伊穗理 漆芸展「漆を纏い 螺鈿が煌めく」

回り道をした分、楽しくて仕方がなかった漆の授業

――漆芸・螺鈿に興味を持ったきっかけは何ですか。

 小学校の卒業文集に、意味が分かっていたのかは思い出せないのですが、「十年後は工芸作家になっている」と書いています。小さい頃から生き物が大好きで、毎日虫や魚を追っ掛けているような子供でした。作品に動植物が多いのはその影響です。

 実際に漆芸に決めたのは、藝大受験中に、音丸耕堂先生と松田権六先生の回顧展を観て、「漆っていいなぁ」と思ったからです。結局藝大には行けず、輪島漆芸技術研修所に行くことになりましたが、4年足踏みをした反動もあり、漆の授業は楽しくて楽しくて。顔や体がひどくかぶれても平気なくらい楽しかったです。研修所で6年間学び、95年に蒔絵科を卒業、文化庁芸術家国内研修員に選ばれたのを機に、奈良の北村昭斎先生に師事しました。螺鈿はそれからです。先生は、重要無形文化財(螺鈿)保持者で、春日大社や正倉院の宝物などの修復もされています。

──中條さんの作品にも正倉院の流れを感じます。

 そうですね。初めは正倉院の宝物を古臭いと思っていたのですが、「これを作った当時の人が、日常生活の中で見ていたそのままを描いているんだ。今私が見ている世界と同じなんだ」と、ストンと心にはまった時から、宝物の鳥や動物が生き生きと鳴いたり走り始めたのです。それから「私もこんな作品を作りたい」と思いました。いざ作ろうとすると画力も技術もまだまだで、悔しいばかりですが。

いろいろなものを見て、幸せな時間を形にする

──ユニークなモチーフの源泉は何ですか。

 身近な好きなもの、たとえば「ロンド」のモチーフは、足の曲ったヒナ鳥のピーちゃんです。うちには5か月しかいませんでしたが、心を通わせ合った幸せな時間を形にしました。制作中は、ずっとピーちゃんと会う事ができますから。「游」は、子供の頃に川の中をのぞいて「いた!!」と、手にした網をギュッと握り直す時のワクワクした私の気持ちを形にしたものです。薔薇は正倉院の五弦琵琶に描かれている、私のあこがれのモチーフ。私の中にも取り入れたくて、庭で育てて毎日見ています。

 自然の中だけでなく、いろいろなものを見て、感じる機会も増やしています。「フランス人間国宝展」や山梨県のアフリカンアートミュージアムにも行って、鑑賞しました。「チワラ」や「カメレオン」はアフリカンアートがヒントです。伝統工芸ではないのではと言われることもありますが。

仕上げのときは、まるで恋をしているような状態に

――螺鈿の材料や制作工程を教えてください。

 貝は、アワビ、夜光貝、白蝶貝、アコヤ貝など。生産地によって色合いや雰囲気が異なります。厚貝は貝を研磨して切り出すもので厚さ1~2mm、乳白色に真珠様の輝きが特長です。薄貝は0.2mm程度、青やピンクの鮮やかな輝きが特長です。私の作品は主に厚貝を用いますが、葉っぱなどの細かなものまで、下絵を厚貝の使いたい場所に貼って、一片一片糸ノコで切り出します。

 器の表面が平面の場合は、貝を貼りその厚み分、漆と地の粉を混ぜたもので埋めます。曲面の場合は、漆の表面を絵柄と同じ形に彫り込んでから貝片を嵌め込みます。どちらも、塗りと研ぎを何度も繰り返します。

──中條さんの思いが作品から伝わってきますね。

 若いころはカッコイイものを作りたいと力んだり、あと一歩で完成という時に緊張したりして、その硬さが作品に現れていましたが、最近は失敗をあまり怖がらず、伸びやかさを大事にしています。

 生き物をモチーフにした時は、仕上げの段階で、恋をしているように、早くでき上がった作品に会いたくてドキドキワクワクしてしまいます。感情が昂って涙が出ることもあります。思いを込めると、不思議とその熱は伝わってくれますね。

 この春、漆芸展を共催した夫の築地久弥さんは、曲面を活かした造形と塗りや蒔絵が得意分野。いつか共同制作の作品もやってみたいという。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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25. 金工 奥村公規氏

日本の技

インタビュー25 金工 奥村公規氏インタビュー 25
金工 奥村公規氏

工夫を重ね、おおらかな表現を目指していく工夫を重ね、おおらかな表現を目指していく

見た目は漆の木箱のようだが、触ると金属とわかる奥村公規さんの作品。鍛金や象嵌(ぞうがん)の技術を高めつつ、日本人が金属とどう向き合ってきたのか、古の工人に思いを馳せながら作る。

聞き手上野由美子

金工 奥村公規氏
奥村公規氏
1950年
東京に生まれる
1975年
武蔵野美術大学卒業
1995年
第42回日本伝統工芸展 文部大臣賞 文化庁買上
1999年
パリにて 日本の工芸「今」100選展出品
2000年
日本橋三越にて個展「祈り」開催
2007年
第36回伝統工芸日本金工展 文化庁長官賞
2007年
第54回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞
2012年
第52回東日本伝統工芸展 東京都知事賞
2016年
第45回伝統工芸日本金工展 宗桂会賞
2017年
第57回東日本伝統工芸展 東京都知事賞
現在
日本工芸会正会員

金工への興味は刀の鐔(つば)から

――もともと金工に興味があったのですか。

 最初は刀剣に興味を持ち、中学生の頃から友達と一緒に刀屋を巡ったり、小遣いをためて買ったりしていました。そのうち本物の素材が欲しくなって、刀の鐔を集めていました。それが金工に興味を持った始まりです。

 鐔はお洒落なんですよ。刀を差した時にどこから見られているかということをきちんと考えてデザインされている。模様を入れる位置も計算しつくされています。表面の地肌も単調にならないよう、鉄の肌合いや色合いを楽しめるように配慮されているのです。

――日本の金工技術の発達は、刀装や仏教美術と密接に関係していますね。

 鋳金・鍛金・彫金の技法は弥生時代に大陸から日本に伝わり、銅鏡、鉄剣、甲冑などの製造に使用されました。仏教伝来に伴い、仏教美術品の制作に広く用いられ、奈良時代に入ると、大仏や仏像に生かされます。刀装金工は室町の頃が最高だとよく言われるのですが、私はもっと古い頃から良い作品があるじゃないかと思っています。

労を惜しまない熱意と努力で国宝の復元も

――技術はどちらで磨かれたのですか?

 私が美大に行ってた頃は金工でもジュエリーが人気で、学校では伝統技術をあまり学べなかったんです。近くの先生のところに週1回通ったり、古いものを壊しながらいじったり、ほとんど自己流です。最後の錆の仕上げの方法がわからなかったとき、伝統工芸展に行って鉄の良い色を出してる作品を見つけて、図録で先生の住所を見て訪ねて行ったこともあります。その時は快く教えてくださいました。文化財の修理などもほんとうに勉強になりますね。過去の人が金属とどのように向き合ってきたかを実感できる良い機会になっています。

――具体的な例を教えていただけますか。

 七支刀(しちしとう)と呼ばれる国宝の復元に関わりました。4世紀に百済から渡ってきて、奈良県の石上(いそのかみ)神宮の境内に埋まっていたもので、考古学界では何が書いてあるのか大騒ぎになった。左右に三本ずつ枝を広げた特異な形をしていて、最初は刀鍛冶が鍛造で作ろうと試みたけどうまくいかない。折れている刀身の様子やその断面などから、溶かした金属を型に流し込んで作った鋳物ではと言う人が出て、鋳造で復元することになったのです。鋳型と金属の収縮率の差で折れてしまうなど失敗が続き、4度目の実験でやっと成功しました。

 その刀身に象嵌を入れたのですが、鋳造は硬くて象嵌するのは難しく、一昼夜熱処理して表面を柔らかくすることで象嵌できるようになる。当時の人はそうした難しい技術を持っていたわけです。

日本のすぐれた金工技術を後世に伝えたい

――奥村さんの作品は、漆器のような質感から石のような地肌まで、金属とは思えない不思議な感じです。

 一見漆器のような鉄地象嵌小匣「離れ」は、鉄のサビ色に椿が映えるように、周囲を金の象嵌で引き締めています。箱のデザインはなかなか難しいのですが、コーナーをデザインとして生かしてみました。このように金属を磨き上げると漆のような質感になるのですが、それ以外にも鋳物のような肌合いを生かしたいというのも長年のテーマでした。まず素材の段階で荒らしをほどこしザラザラにするんですね。そして色上げ前に金属を酸で洗う際にも工夫をします。四分一(しぶいち)という合金は、銅と銀の配合によってグレーの濃淡を変えるのですが、酸に入れると表面の銅だけ溶けて銀色になってしまうので、炭で研いでピンク色にしてから色上げする。その際、凸凹があると凹んだところは研いでも残るので、色が2色混ざった朧(おぼろ)げな表現もできるのです。

――これからはどういう展開を考えていますか。

 かつては男性のお洒落にと、様々なオーダーがありましたが、近年は既製品でもすぐれた品物が増え、オーダーをする人が少なくなって来たのは残念です。しかし、日本の金工技術はとてもすぐれているので、それを後世に伝える仕事に関わっていきたいですね。

 昔の人の作品を見ると、幕末・明治になると完成度が上がってきちっとしていますが、もっと時代を遡ると、おおらかでなんともいえない良さがあるんですね。稚拙と言われることもあるけど、私はそう思いません。その良さは何なのか、永遠のテーマなんです。今後の作品にもそうした良さを表現できればと思っています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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24-2. 金工 竹花万貴氏

日本の技

インタビュー24 日本刺繍と仕覆 竹花万貴氏インタビュー 24
日本刺繍と仕覆 竹花万貴氏

一幅の絵になるよう、季節感を意識して刺繍する虫や鳥の帯留で、着物に独自の物語を生み出す

前編での彫金帯留に続き、後編では竹花氏の日本刺繍と古布で作られた仕覆(しふく=茶の道具や器などを包む布製の袋)をご紹介する。古い帯や着物が、竹花氏の技術と感性により、生き生きとよみがえる。和装に新たな楽しみが加わる瞬間だ。

聞き手上野由美子

日本刺繍と仕覆 竹花万貴氏
竹花万貴氏
1968年
代々木デザイナー学院 ジュエリーデザイン研究科卒業
1980年
銀花ギャラリーにて個展「骨董ジュエリーの試み」
1982年
銀座松屋にて個展「骨董ジュエリーの試みⅡ」
1988年
ギャラリー三幸にて個展「印象・能」
2001年
第30回伝統工芸日本金工展初入選「つばめ」「かたつむり」
2003年
第49回日本伝統工芸展初入選「かまきり」
2007年
個展「彫金帯留・わが身より あこがれいずる」銀座ミキモト
2008年
第37回伝統工芸日本金工展「蟹」日本工芸会賞受賞
2013年
個展「ジャポニズムに想う-彫金帯留」銀座ミキモト
2014年
第43回伝統工芸日本金工展「ざくろ」宗桂会賞受賞
2015年
第44回伝統工芸日本金工展「朝顔」東京都教育委員会賞受賞
他数多くの入選をはたす。
現在
日本工芸会正会員

好きな布を見ながら物語を考えるのが楽しい

――私が着させていただいたのは、「草がくれ」の着物・帯・帯留。前編でも紹介したものですね。

 そうですね。虫の行列が月に向かって貢物を運んでいる秋の豊穣祭のイメージ。途中すすき(帯)の中にかまきり(帯留)が隠れている様子です。

 私が着ているのは、なでしこと擬宝珠(ぎぼうし)の着物に、萩の帯、お太鼓にはなでしこと虫籠を刺繍してあります。帯留は、作品集では蝶をコーディネートしていますが、今日はより秋らしくキリギリスです。

 佐藤さんが着ているのは、とんぼの絵柄の着物に、帯はぶどう柄、帯留はりすです。不思議な取り合わせに思うかもしれませんが、ぶどうは武道に通じるとして、「武道を律す」という語呂で、昔から武人に好まれた図柄なんです。蒔絵や彫り物にもよく登場します。

――着物や帯はアンティークを用いられていますが、入手されるのは大変ではないですか。

 もともと骨董が好きだったこともあり、以前はよく旅行先で骨董店を覗いて探したりしていました。でも、結局良いものは京都や東京の骨董店に集まってくるんです。あとでご紹介する仕覆に用いる布もそうですが、好きな布に出会うと買い置きしておきます。夜な夜な布を見ながら、ここに何を刺繍してとか、この柄をどう見せてとか、妄想というか私なりの物語を創造して楽しんでいます。

仕覆は、お道具と布地の個性を調和させる

――自分一人で絵柄を考えて、刺繍をして、彫金もしてというのは大変だと思うのですが。

 帯にひと針ひと針縫っていく刺繍も、彫金でコツコツと帯留を作るのも、たんたんと一人で何か作っているのが楽しくてしょうがなくて、気がついたら夜が更けていることもよくあります。

 最近は、特に季節感を意識して作っています。一幅の画のような帯が理想です。雪の結晶を刺繍した着物、それに合わせた帯。深深(しんしん)と降り積もる雪の中に佇(たたず)む一羽の白鷺図が、先日完成しました。できたばかりで写真撮影をしておらず、ここにご紹介できなくて残念です。

――それでは着物を着たところで、仕覆を見せていただきます。どれも皆かわいいですね。

 うれしいです。お道具や更紗・能衣装裂などの生まれた場所や時代、布地の柄などからドラマを想像しながら、この子にどんな服を着せてあげようかという感じで、トータルコーディネートするのが面白いのです。最近は、「自分のお道具用に作りたいので教えてほしい」という人もいるんですよ。仕覆は縫うところは少ないですから、手順とコツを学べば、あとはセンスだと思います。

 ただ、きちんとした物を作るのは大変です。まず採寸をして、和紙で底と本体の型紙を作る。底は、表裏ともに何枚かの和紙を貼り、それぞれの布を貼る。裏布で仮縫いし、次に表を縫う。表と裏の底同士を貼り、合体する。表の内側に綿を入れる。つがり糸を撚(よ)り、組み紐で緒を作るなど、地味な作業の結果です。

区報で見つけた日本刺繍の先生

――刺繍と仕覆はどちらで習われたのですか。

 刺繍はいつか習いたいと思いながら、なかなか出会いがありませんでした。区報で知った「職人が教える日本刺繍」という講座を体験したところ、先生の技術の素晴らしさに「やっと出会った!」と感じ、即入門しました。10年以上、今も習っています。

 仕覆は何年か教室に通い、最終的に職人の先生に行き着きました。残念ながら仕覆の先生は亡くなられ、今は思い出しながら自習しています。


ジャポニズムシリーズの仕覆3点。
布地は、(左)19世紀イラン、(右上)19世紀インド、(右下)19世紀フランスのもの。
仕覆に包まれているのは、エミール・ガレ、ルネ・ラリックなどのガラス器。
――彫金帯留のご指導はされないのですか。

 スペースの問題、ガスバーナーやその他設備の問題、道具の鏨(たがね)を自作するところからしなければならないので、現状では難しいと思います。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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24. 金工 竹花万貴氏

日本の技

インタビュー24 金工 竹花万貴氏インタビュー 24
金工 竹花万貴氏

虫や鳥の帯留で、着物に独自の物語を生み出す虫や鳥の帯留で、着物に独自の物語を生み出す

古い着物と帯に日本刺繍で命を吹き込み、ユニークな彫金帯留で独自の自然観を表現する竹花万貴氏。作品はまるで着物を舞台にして、一つの物語がつくられているようだ。今号の前編では、竹花氏創作の彫金帯留に焦点を当てて紹介する。

聞き手上野由美子

金工 竹花万貴氏
竹花万貴氏
1968年
代々木デザイナー学院 ジュエリーデザイン研究科卒業
1980年
銀花ギャラリーにて個展「骨董ジュエリーの試み」
1982年
銀座松屋にて個展「骨董ジュエリーの試みⅡ」
1988年
ギャラリー三幸にて個展「印象・能」
2001年
第30回伝統工芸日本金工展初入選「つばめ」「かたつむり」
2003年
第49回日本伝統工芸展初入選「かまきり」
2007年
個展「彫金帯留・わが身より あこがれいずる」銀座ミキモト
2008年
第37回伝統工芸日本金工展「蟹」日本工芸会賞受賞
2013年
個展「ジャポニズムに想う-彫金帯留」銀座ミキモト
2014年
第43回伝統工芸日本金工展「ざくろ」宗桂会賞受賞
2015年
第44回伝統工芸日本金工展「朝顔」東京都教育委員会賞受賞
他数多くの入選をはたす。
現在
日本工芸会正会員

ジュエリーから彫金への転機となった師との出会い

――刺繍帯と合わせた彫金帯留が竹花さんの特徴ですが、この方向に進んだきっかけは何でしたか。
 小学生の頃から刺繍は好きで、友達の誕生日などに刺繍を施したハンカチや母の日にエプロンを贈っていました。そして宝石箱を作りながら、自分にしかできないアクセサリーを創りたいと夢想していたことが彫金に進むきっかけでした。また、骨董にも興味があり、初期の頃は骨董と金属と組み合わせた作品づくりが主で、1980年の個展「骨董ジュエリーの試み」、82年の「骨董ジュエリーの試みⅡ」が初期の作品発表の場となりました。

――そして、師との出会いもあったのですね。

 はい。80年の「骨董ジュエリーの試み」に染色家の久保田一竹先生が来てくださり、亡くなられる2003年まで、先生の着物の装身具などの制作にたずさわりました。その間は先生の注文に応えるのが精一杯でした。

 もうひと方、81年から師事した浅井盛征先生により、伝統工芸の奥深さを学び、ジュエリーから彫金への転機となりました。

小さな生き物への感動を作品のモチーフに

――作品のモチーフはどのように決めるのですか。

 周囲の自然から思い浮かぶことが多いです。19世紀にヨーロッパでブームとなったジャポニズムは、単に日本的構図やモチーフに魅せられただけでなく、日本人独特の自然の捉え方に感動したと言われています。私もそう思います。特に清少納言の「枕草子」や和泉式部などの自然を捉えた世界が好きです。厳しい大自然の中で、ひそやかに息づく、か弱いけれど凛々しい小さな生き物たちに感動を覚えます。その感動の記憶から、直感的に作品のイメージが浮かんできます。

 小鳥のさえずりや虫の音、水や風の音、季節の移ろいを感じながら制作するようにしています。

――たしかに兜虫や蟷螂(かまきり)など、着物には珍しいですね。

 着物や帯はもともと花柄が多く、そのイメージに合わせると平板なものになってしまいます。わたし独自の物語を生み出すために、虫や鳥を素材にすることが多いです。「かまきり」は着物の柄が虫の行列でした。帯がすすき柄。虫が月に向かって行進しているイメージが浮かびました。それで、この辺にかまきりのような、ちょっと怪しいやつがいたらいいかなと。

多種多様な材料と工程で日本人独特の自然観を写す

――材料や作業工程を教えてください。

 彫金に使う金属素材は金、銀、赤銅、黒味銅、黄銅(真鍮)、四分一などです。四分一は金・銀・銅の合金で硬く、銀の配合比率が4分の1のため、こう呼ばれています。金属で出せる色は少ないのですが、グラデーションなども工夫して表現します。見る方の想像力にも助けられています。

①デザインスケッチをしたら、②粘土で立体化して形に無理がないか確認します。加工は、③最初に地金の裏から丸味を出した後、④表側から鏨(たがね)を使って打出しを始めます。だいたい形ができたら、⑤色を変えたいところに別の金属をロウ付けし、⑥仕上がりの形に沿って切り取ります。⑦ヤスリで整えた後、細部の象嵌(ぞうがん)や、つくり、彫りを重ね、⑧入念に炭研ぎをして、薬剤を溶かした煮液で煮込み、色を出します。

――いろんな種類の鏨があるのですね。

 鏨は彫金の命とも言える道具です。太いものから細いものまで。先が丸いもの、平たいもの。打ち出し用や象嵌用など、その時必要な鏨を駆使しています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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23. 元文化庁長官 近藤文化・外交研究所代表 近藤誠一氏

日本の技

インタビュー23 元文化庁長官 近藤文化・外交研究所代表 近藤誠一氏インタビュー 23
元文化庁長官 近藤文化・外交研究所代表
近藤誠一氏

「文化を日本外交の中心に置くべき」を推進し続けて「文化を日本外交の中心に置くべき」を推進し続けて

外交官で文化庁長官も務めた近藤誠一氏は、一貫して「文化を日本外交の中心に置くべき」と言い続け、文化外交を推進してきた。文化庁長官を退官後は、近藤文化・外交研究所を設立。海外での幅広い人脈を活かして、日本の伝統工芸の認知度向上に尽力している。

聞き手上野由美子

元文化庁長官 近藤文化・外交研究所代表 近藤誠一氏
近藤誠一氏
1971年
東京大学教養学部教養学科イギリス科卒業
1972年
外務省入省
1973年
英国オックスフォード大学留学
2003年
外務省文化交流部長
2006年
ユネスコ日本政府代表部特命全権大使
2008年
駐デンマーク特命全権大使
2010年
文化庁長官(~2013年)
2013年
近藤文化・外交研究所設立
2016年
瑞宝重光章受章

視点を変えて日本工芸の魅力をアピールする

――日本の伝統工芸品は、伝承の危機にある分野もあります。海外で評価された作家が逆輸入的に日本でも人気が出る現象もあり、作家さんたちがその目を海外へ向けてはいますが、なかなか機会がないと聞きます。

 そうですね。安価な工業製品に押されて工芸品が売れない。後継者がいない。師匠だって将来に不安がある。道具や材料が手に入らなくなってきた。ずっと叫ばれている危機です。それならば海外へと考えるのは当然で、成功している人も少なくありません。ヨーロッパでも、パリのギメ東洋美術館、英国のセインズベリー日本藝術研究所、その所長で大英博物館のキュレーターでもあるニコル・クーリッジ・ルマニエール教授などは、日本の工芸を芸術として高く評価してくれています。

 しかし、厳しい話もあります。以前オランダのユトレヒトの美術展で、伝統工芸の出展を断られたことがあります。作家は人間国宝で、現地の日本大使館から外交ルートでの後押しもしましたが、それでも実現しませんでした。北斎などのアートは歓迎だがクラフトは要らないというのです。日本の工芸に対する評価はこの程度かと、危機感を持ちました。日本人には、器や道具にも用の美を感じる感性があります。独特の自然観や繊細な美意識、目に見えないスピリッツを味わう素晴らしいものです。でもその価値観をそのまま向こうに持っていっても通用しないと考えた方がよいと思います。

――どういったアプローチをしたら良いですか。

 タペストリーや磁器など、伝統工芸はヨーロッパにもあり、それらはアートの一つと認識されています。そして、絵画、彫刻、演劇、音楽など他のアートとの競争は激しく常に切磋琢磨し合っているのです。日本の工芸も現地のトレンドを見ているプロデューサーやデザイナーなどの視点を取り入れ、伝統工芸の高い技術や精神とコラボした、KOGEIとしての魅力をアピールした方が受け入れられやすいと感じます。

 そうしたきっかけにもなるよう、ギメ東洋美術館、ルーブル美術館、ニコル教授らとも手を組みながら、日本文化の理解浸透とマーケットの拡大につながる、起死回生の策を練っているところです。

フランス・アルザスに日本の伝統文化の拠点を

――計画中のアルザスの話を聞かせていただけますか。

 フランスのドイツ国境に近いアルザス地方のキンツハイムに、アルザス成城学園という日本人学校がありました(1986年〜2005年)。その寄宿舎が使われずに残っていて、私が外務省の文化交流部長をしていたときに、隣地にある欧州日本学研究所のクライン所長が、隣同士で施設を活かして、両国のために何かしたいというお話がありました。03年の11月だったと思います。アルザスは日本びいきで、閉校したとはいえ成城学園があった場所を単なる観光地にはしたくないとも。すぐできることとして、国際交流基金に頼んで、日本の幾つかの大学が夏休みに行ってセミナーをやっています。

 文化庁長官の時にクラインさんが再び日本に来てくれました。そのときは具体的じゃなかったのですが、昨年の夏に急に話が進んで、改築案を示したところ、土地は1ユーロで譲り受ける、そのかわり数年以内にしっかりしたものをつくる、ということで合意したところです。

――どういう事業をやっていくのですか。

 実はヨーロッパには、修復できないで眠っている日本の工芸品が大量にあるのです。それらの修復を請け負い、展示したりオークションに出したりする。コレクターも喜ぶし、マーケットの拡大にもつながります。修復にあたるのは日本から行く工芸作家です。高い技術を披露しつつ、ヨーロッパのアーティストやプロデューサー、デザイナーたちと交流できます。それと、これが肝心なのですが、修理するところを見せたり体験させたりするのです。

 音楽の話になりますが、フランスのナントで始まった世界最大級のクラシック音楽祭を、05年に日本に持ち込んだ「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」が毎年5月に開催され、一番面白いのがマスタークラスという公開レッスンなんです。100人くらいが参加して一流の音楽家が学生を指導する。1時間のうちに学生が技術やスピリッツを吸収して、みるみる上達していくんですよ。指揮者の小林研一郎さんも、楽曲を作り上げていく過程を一般に見せるイベント、「レクチャーコンサート 」を長野県で毎年やっています。最後に仕上がった演奏を聞くと感動的です。

作品のプロセスを感じることで心が豊かに

――私も当連載の取材ですっかり伝統工芸の虜(とりこ)になりました。体験や見学はファン拡大には大切ですね。

 私は「結果よりプロセス」とよく言うのですが、何でもネットで検索して知った気になるのと実体験は違います。日本の工芸品がどんなにすごいプロセスを経てできているのか、ヨーロッパの人にぜひ見てほしいですね。自分で焼いた器は愛着があって、ごはんがおいしいですよね。一流作家の作品はプロセスのすごさを感じられるからこそ、使うと心が豊かになるんです。
 アルザスは西ヨーロッパの真ん中で、スイスのバーゼルやドイツのフランクフルトと近く、パリへも2時間程度。日本の発信拠点としてはもってこいなんです。

――日本のアニメと美術館がコラボをした「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」が世界中で人気ですが。

 特にフランスでは、日本のアニメやヴォーカロイドの初音ミクなどがすごい人気ですね。日本に興味を抱く入り口としてはそれでも良いと思います。実際、新聞記事にも載っているように、いまヨーロッパで一番人気の日本の工芸は刀剣類なのです。最初はそれらの修理を中心に、持続可能な収益を確保したいと考えています。
 アルザスは西ヨーロッパの真ん中で、スイスのバーゼルやドイツのフランクフルトと近く、パリへも2時間程度。日本の発信拠点としてはもってこいです。

日欧をつなぐ芸術支援の場をつくっていきたい

――いつごろオープンする予定ですか。

 2020年を目指しています。その過程として、来年パリで開催する「ジャポニズム展」において、職人の修復技術を見せるなど、アルザスにつながる動きをしたいと思っています。「匠アールビバン・ドゥ・ジャポン」という一般社団法人を立ち上げ、修理の事業計画や、研修、ワークショップ、展示会、芸術家のサロンなどを盛り込んだ年間計画も作成しています。『生きた芸術』というコンセプトで、伝統文化のスピリットを感じ取り、意見を交わしながら先人からの知恵を学び、それらを現代に活かしていく契機となる場にしたいです。

 芸術文化が与える“ひらめき”の力は、経済や政策にも革新を生み出します。大きなスポンサーを動かすために、工芸関係者、学者、職人を多く抱える自治体などからの支援を取り付けているところです。
 ストラスブール大学の日本語学科の学生は200人もいるのですが、それを就職に活かせていません。うまく展開して彼らの就職にも寄与したいですし、第2段として、日本にもそういう施設をつくって相互交流をしたいと考えています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

デュエール・ヌヴェル・ダルザス紙に掲載された記事は "L’Alsace" のサイトでご欄いただけます。
http://www.lalsace.fr/haut-rhin/2017/03/31/au-milieu-des-vignes-tout-l-art-du-japon

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