生涯学習情報誌

日本の技

インタビュー30 陶芸 井上萬二 インタビュー 30
陶芸 井上萬二

白磁を極めて、なお新境地に挑み続ける白磁を極めて、なお新境地に挑み続ける

人間国宝に認定された井上萬二さんは、90歳になった今も新しい表現にチャレンジしている。教え子はすでに500人。アメリカでも150人を超え、日本の伝統工芸を海外に広めた第一人者である。

聞き手上野由美子

陶芸 須田賢司
井上萬二氏
1929年
佐賀県有田町に生まれる
1958年
有田窯業試験場にて磁器の研究開始
1968年
日本伝統工芸展初入選。以後毎年入選
1969年
ペンシルバニア州立大学で5カ月間作陶指導
1971年〜
日本陶芸展入選、同カナダ、アメリカ巡回展、南米巡回展招待出品
1979年
労働大臣表彰(現代の名工)
1987年
日本伝統工芸展文部大臣賞受賞(文化庁買上げ)
1995年
ドイツにて個展、以後、ハンガリー、モナコ、ポルトガル、 ポーランド、ニューヨーク、香港などにて個展開催
1995年
重要無形文化財「白磁」指定
1997年
紫綬褒章受章
2003年
旭日中綬章受章

好奇心とチャレンジ精神

――90歳の今も新しい作品を出し続けていますが、井上先生の作品作りの源はなんですか。

 好奇心です。百貨店や工芸会の展覧会、講演などで全国を回る際、必ずその土地の護国神社に行きます。その地方で有名な人の碑文を読み、名文があればノートに控え、神社仏閣を巡っては自分の美意識を高めます。今でも年に数回は必ず海外に行き、異なった文化からもアイデアを取り入れます。

 銀座和光での個展が今年で43回目を迎えましたが、同じ会場で毎年続けるというのは非常に難しいんです。一度出した作品ではお客さんが楽しめませんから、毎年新しいものを提供しないといけない。チャレンジ精神とクリエイティブ精神を持って、挑戦し続けています。

大成するのは努力し続ける人

――陶芸の道を志したきっかけは。

 父親が有田の窯元でしたが、自分がやろうとは考えませんでした。私の少年時代は大東亜戦争の最中。軍事工場では勉強できないので、早く軍の学校で勉強したいと考え、15歳の時に海軍飛行予科練習生になりました。足掛け2年、過酷な訓練の日々でしたが、毎日勉強できるというのは喜びでした。一人前のパイロットになる前に終戦を迎え、故郷に帰ると、親に窯元を継いでほしいと言われました。

 しかし、やるなら徹底してやりたいと修練に出て、7年間無給でひたすら修練を積みました。戦後の世の中が少し豊かになってきて、みんなは遊んでいる。修行をいつまで続けるか悩んでいました。しかし、父親の勧めで入った柿右衛門窯で、ろくろ師として名高い初代奥川忠右衛門の技に出合い、この人に近付きたいと思いました。そこでも3年間下積みして、10年経つと十二分に飯を食える腕になりました。

――でも、すぐには独立されなかったのですよね。

 そこで満足せず、さらに技術を磨きたいと思い、有田にある佐賀県立窯業試験場という焼き物の研究機関に入りました。制作のノルマはなく、陶土や釉薬の研究、築炉、焼成などを徹底的に研究しながら、13年間勤めました。

 窯業試験場では、有田焼の後継者育成のために研修生制度を作り、そこから500名ほどが巣立ち、日本中で活躍しています。努力していれば誰の人生においても運は必ずやって来ます。運が来たらさらに努力しなければならない。育成をして感じたのは、不器用ではダメだけど器用過ぎてもダメということ。器用な人は努力が足りません。普通の人で努力する人が大成します。

アメリカにも弟子がたくさん

――アメリカの大学でも指導されていますが。

 1969年にアメリカのペンシルバニア大学から、伝統工芸の指導依頼がありました。期間は半年。月給が2,000ドル(当時1ドル360円だったので72万円)ももらえるのと、何よりアメリカへ行ける喜びがありました。いちばんの難関は、通訳がいないこと。渡米する前の3カ月間、単語を一日に5、6個ずつ覚えました。自分で計画を立て、日本から一人で3回も飛行機を乗り継ぎ、迷わずペンシルバニアにたどり着いたのは、今考えても我ながら感心します。

 講義はもちろん英語です。毎夕、宿舎のベッドに寝転んで明日教える学科の言葉を勉強し、発音などは学生たちに教わりました。アメリカの学生は、日本人ではありえませんが、行儀悪くテーブルに腰かけて授業を受けたりするので、心を広く持って接しなくてはなりませんでした。しかし、教えてもらうことが当たり前のマンネリ化した日本の学生と違って、彼らは本当に熱心に学んでくれました。そうした人間同士の付き合いも含め、充実した毎日でした。アメリカには今でも150人以上の弟子がおり、30回は渡米しています。

 日本へ戻って1年間公務員として働いて、ある方から資金援助を受けて窯を開きました。徹底的に技を磨いてから独立したので、焼き物の世界では何も恐くないという気持ちでした。

――陶磁器以外の日本の伝統文化を発信されてますね。

 5カ国で2年に一回、日本伝統工芸の展覧会をしています。最初のハンガリーでは、280名もの日本人を連れて訪れました。そのうち180人は女性だったので、日本の良さを伝えるために着物でハンガリーの石畳の上を歩いてもらいました。茶道や華道の先生、和楽器の奏者たちもおり、それぞれが技術を披露しました。

 ニューメキシコ州の大学でも指導していますが、必ず20~30人の観光者を連れて行き、日本人とアメリカ側の先生や生徒たちを集めて宴会をするという、楽しい交流も毎年やっています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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