第5回 春日雅人さん

理事長対談   
輝き人のチャレンジと学び

第5回 春日雅人さん 第5回 春日雅人さん

医師・医学博士/朝日生命成人病研究所 所長
国立国際医療研究センター 名誉理事長/第31回日本医学会総会 会頭

生涯学習開発財団理事長・横川浩が各界で活躍される輝き人にお話を伺うシリーズ。目指した道で自分を伸ばすヒント、そして人生の転機における新たなチャレンジや学びついてお伝えします。
第5回は、医師・医学博士で糖尿病研究の第一人者・春日雅人さん。米国留学における想定外の苦境や、そこからどう糖尿病発症のメカニズム発見に至ったのかなど、お聞きしました。

かすが まさと●1948年生まれ。東京大学医学部卒業。東大病院第三内科を経て米国留学し、留学中の1981年、糖尿病発症の根源的メカニズムを発見。以後も糖尿病研究や予防に大きく貢献し、第一人者として研究・指導に活躍。持田記念学術賞、ベルツ賞、日本医師会医学賞、武田医学賞、紫綬褒章受勲、欧州糖尿病学会Claude Bernard Prize、 鈴木万平記念糖尿病国際賞など受賞多数

留学先で放置された苦境から
糖尿病のメカニズム解明という大発見

横川 春日さんとは麻布中学校以来、60年以上のおつきあいになります。糖尿病研究の分野で歴史的発見をされたにもかかわらず、とても謙虚な方で、自慢げに自分の話をするようなことがありません。なので、長年つきあっていても意外と知らない面があります。今日は、医学の道にどう向き合って、どんな学びやチャレンジをしてこられたか、お聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。

春日 こちらこそ、よろしくお願いします。

横川 まずは、なぜ医学の道を選ばれたのか、そこからお話しいただければと思います。

春日 父が内科医として開業し、親戚にも医師が多くいました。強く勧められたわけではないですが、身近に医を感じる中で、自然に医者になろうと思うようになっていきましたね。

横川 私もお父様にお会いしたことがありますが、特に地域医療を大切にされている立派なお医者さんという印象があります。中学生の時はもう決めていましたか。

春日 そのころはまだなんとなくで、進路を迷っていた時期もあります。特別な理由があって医者を目指したということではないのです。

横川 春日さんの自然体を感じますが、その後は順調に東京大学医学部に入られ、卒業後は第三内科に入局されています。

現在所長を務める公益財団法人朝日生命成人病研究所にて。生活習慣病の研究施設と付属医院があり、糖尿病、循環器、消化器の患者を外来診療し、糖尿病の学習入院もできる。
学習入院とは、糖尿病改善や予防に必要な食生活や運動について、1、2週間入院して、実践しながら学ぶもの。ほとんどの人は学習入院中に血糖値が顕著に改善するという。

外科では治せない病気を専門に

春日 フィジシャンサイエンティストというのですが、病気がどうして起こるのかを追究したい、同時に患者さんも診られる医者になりたい、そう思うようになったのです。父のように患者さん一人ひとりを診療して病気を治すのもやりがいがあると感じるのですが、病気の根本的なところを研究して社会に役立てられたらと思ったのです。東大の特に内科では、研究と臨床の両方を目指す人は多いです。

横川 内科の中でも糖尿病を専門に選んだのはなぜですか。

春日 そのころは内科で診断して外科で治療するということが多かったんです。たとえば心臓弁膜症などは外科で手術をします。胃潰瘍でさえ外科治療していました。そんな状況から、当時は外科に行く人が多かったのです。
 しかし私は、診断だけして治療は外科にお願いするというのが嫌で、そういう領域ではなく、外科では治せない病気を専門にしたいと思いました。糖尿病は慢性の病気で、傷んだ臓器や血管を取り換えるという臓器移植で治療が可能かもしれませんが、外科では治療しにくい領域です。動脈硬化や糖尿病はその代表的な病気だと思います。そういう訳で第三内科、そして糖尿病を選択しました。

横川 20代の若さでそうした大きな選択をされたわけですが、振り返って他の領域をやればよかったと思ったことはありませんか。

春日 それはなかったですね。私に限らずですがいったん飛び込んでしまうと、忙しくやってるうちにその領域ならではの面白さに気づき、もっと追究したいと思うものです。当時はいろいろなホルモンが見つかって、どのホルモンがどう作用するのかがわかり始めた時期で、内分泌学や糖尿病学は取り組みがいがある、ある意味華々しい分野だったかもしれません。今の時代なら、研究者としてもっとチャレンジングだったり面白いと感じたりする分野は、また違ったかもしれませんが。

4年に一度の医学会総会の会頭として

横川 そういえば、医学の多様な分野の方が集う第31回日本医学会総会が2023年4月に開催され、その会頭を務めておられますね。

春日 日本医学会は、内科学会や外科学会といった医学関係の141の学会が加盟しています。その日本医学会が主催して、4年に1回総会を開き、基礎から臨床までのさまざまな横断的なテーマ、今回は「ビッグデータが拓く未来の医学と医療」ですが、それについてディスカッションをしました。同時に、医学・医療の現状と将来について、社会に発信して対話するというもう一つの使命があります。一般の方にも分かる形での展示や講演会を行いました。

横川 4年に1回というと、医学会のオリンピックのような感じですね。そのようなイベントのトップを春日さんが担われるということを、友人としては大変誇りに思います。
 副題として「豊かな人生100年時代を求めて」とあります。生涯学習開発財団も充実した人生100年を過ごしていただくために、学び続けることの大切さを啓蒙しているので、共通のテーマだなと拝見しました。
 話を戻しますが、1979年に第三内科からアメリカに留学されますが、留学を選んだのはなぜですか。

第31回日本医学会総会ポスター

第31回日本医学会総会のポスター。
2023年4月、東京国際フォーラムを中心とした丸の内・有楽町エリアにて開催された。学会としての学術集会のほかに、現代の医療がどう進歩してきて、いま何が問題なのか、あるいはそれがどのように解決されるのかなど、一般向けの展示や講演会も行われた。

春日 日本で週5日、6日、患者さんを診ながら並行して研究していると、研究に専念できず、どうしても中途半端なところがあるわけです。日本である程度研究に慣れたらアメリカで朝から晩まで研究に没頭したいと思い、フェローシップを取ってNIH(国立衛生研究所)に留学したわけです。NIHはアメリカで最も歴史がある医学研究所で、糖尿病研究では世界的権威だったジェシー・ロスの研究室は優れた研究者が集まっていました。

横川 念願だった研究に没頭できる日々が始まったのですね。

アメリカ留学で想定外の苦境に

春日 ところが、時間はたっぷりありましたが、研究に没頭とはいかなかったんです。通常は留学するとその研究室のボスから「君は何々を研究しなさい」というような指示があるものなのです。世界有数の研究室なのだから、行けば良い研究ができると思いこんでいました。しかし私の場合は、「君はフェローシップを持ってきたのだから、ラボの研究ではなく自分の研究を自由にやりなさい」と言われ、上司もすぐにサバティカル(研究休暇)でパリに行ってしまったのです。ジェシー・ロスにも「焦るな。スミソニアン博物館に行ってゆっくりと展示品を眺めてきなさい」と言われました。要は自分で考えろということです。やりたい実験も思いつかないので、1年くらい実験せずに過ごしてしまいました。

横川 自分をその立場に置き換えたら、なかなかつらい日々ですね。

春日 研究所には各国から来た同年代の人たちもいましたが、相談したところで、面白いアイディアがあれば自分で研究しますから、教えてくれるはずがありません。結局、研究テーマや実験は自分で考えて自分でやらなくてはいけないということが、身にしみてわかりました。図書館で論文を読み込んで、ラボの強みを活かした研究ができないかなと考え、なんとかある程度データを得ることができました。
 1年間苦労はしましたが、ある意味では自由に研究ができ、なおかつ鍛えられたと言っていいのかもしれません。非常につらく厳しい状況でしたけどね。

いよいよ研究に没頭し歴史的大発見

横川 そうやって自分で考えた研究に邁進する中、1981年に、チロシンキナーゼという酵素の関与ですか、糖尿病発症のメカニズムを解明するという大発見をされたのですね。

春日 糖尿病はインスリンの作用不足で起こります。インスリンの出が悪ければ糖尿病になりますし、肥満の人はインスリンはたくさん出ますが効きが悪い。なぜインスリンが出ないのか、なぜ効きが悪いのかがわかると糖尿病のメカニズムが解明されるわけです。その頃、インスリンが細胞表面にある受容体にくっつくことで、インスリンが持つ情報が細胞の中に伝えられると知られ始めたころでした。ところが受容体にくっついた際、何の機能でそれが起きるかわからなかった。その第一歩がインスリン受容体に内在するリン酸化酵素であるチロシンキナーゼを活性化させることだということを、実験によりつきとめたのです。チロシンキナーゼの活性が落ちている人は糖尿病になりやすいのです。

横川 春日さんはその実績を評価され、プロフィールにも書いた通り多くの医学賞受賞をされています。我々仲間内では春日さんがいずれノーベル賞を受賞されるのではないか、そうなるといいなという話もしていました。

春日 ノーベル賞は新たな治療法とか新薬につながることが必要です。インスリン作用の第一歩は解明しましたが、それを基にして画期的な治療法や薬が生まれたわけではないのです。

横川 相変わらず謙虚なのが春日さんらしいですが、アメリカではそうはいかないですよね。

春日 そうですね。日本の社会とはやはり違うので、いい意味で自分を出さないといけませんね。アメリカ時代は、特に研究に関しては、かなり積極的にできたかなという気がします。

「優秀な人間から外に出す」

横川 留学を終えて東大の第三内科に戻られますが、1990年に神戸大学の教授になられました。それはどういう経緯ですか。

春日 戻って7年目くらいに教授から、神戸大学の糖尿病も専門にしている内科で教授を募集しているが、応募してみないかと勧められました。東大の第三内科は日本で最も古い内科とされていて、特に冲中重雄先生は有名でした。その冲中先生が「冲中内科では優秀な人ほど早く外に出す」とおっしゃったと。本当かどうか知りませんが(笑)。私が東大にいなくても糖尿病グループは優秀で、しっかり活動してくれると感じていましたし、それに、応募しても通るとは限らないしと思い応募したら通ってしまったわけです。

横川 さすがにそれは謙遜でしょう。

春日 いえ、その頃は内科の教授は50歳くらいで就くことが多かったのですが、私の場合42でした。若すぎるのと、私は東京からの応募で神戸大学内でも立候補者がいましたから、通る可能性は高いとは思っていませんでした。

横川 神戸大学ではその後附属病院の院長などもされて、けっこう長かったですよね。

春日 18年ですね。最初の5年くらいは家族も一緒でしたが、子供の学校のこともあり、それ以降は単身でした。

横川 私も通産省時代の40代半ばから、東京を離れての勤務・生活をけっこう多くやりましたが、これが実に楽しく素晴らしい経験となりました。春日さんもそうだったのかなと想像しますが。

春日 やはり神戸大学の人が、一緒にがんばろうと前向きに受け入れてくれましたし、若い人のエネルギーを借りて研究したり、あるいは診療したりするのは面白かったですよ。

横川 神戸では、1995年の阪神淡路大震災にあわれていますよね。

春日 私の自宅はそれほどでもなかったのですが、初日は約20キロを歩いて病院に行きました。病院に着いても5階の研究室まで上がるのがまず大変で、研究室や教授室は実験設備やらテレビやらが飛び交い、原状を留めていませんでした。
 心配して救急部の方に行きましたが、続々と被災者が運ばれて来て、「先生そこにいたらじゃまですから」と追い出されたような感じでした。職員や学生にも被災者が多数出て、落ち着いて研究ができるようになるまで、6か月くらいかかったと思います。

私の場合は「楽しいからこそ頑張れる」
研究に没頭することでゾーンに入ったのかも

横川 2008年に国立国際医療研究センターに移られ、最終的には理事長・総長も務められます。医師・研究者としての勉強を続けながら、マネジメントでも力を発揮されたんですね。

春日 いやいや、マネジメントは得意ではありません。研究には体力も必要で、若い人にやってもらいながら、徐々に管理職になっていくのですが、一番の醍醐味は自分の手で研究をすることです。論文を読んだり知識を学ぶのは今でもあまり苦にはならないですね。

横川 われわれが取り組んでいる生涯学習でも、人によって、頑張る学習と楽しむ学習があると思います。

春日 私の場合は「楽しいからこそ頑張れる」という思いが強くあります。興味がある、面白いと思うことは続けられるし、集中したときにすごい能力を発揮します。まずは自分の興味や面白いと思うことに取り組むといいのではないですか。

大発見のようなゾーンに入れた理由

横川 後進の指導や育成においても、そういう点を重視されているのですか。

春日 無理強いはしない主義ですね。私が研究しているのを見て、面白そうだとついてきた方もいらっしゃるし、臨床が面白いと感じればそうした道に進むのがいいと思っています。

横川 そういえば、新宿山吹町でお父様が開かれた春日医院はいまご子息が継がれていて、春日さんも診察をされているのですよね。

春日 私は週に半日だけですが、息子は地域医療にやりがいを感じて継いでいます。

横川 財団では50歳以上の方で博士号に挑戦される方を支援しています。チャレンジされている方にアドバイスはありますでしょうか。

春日 会社を定年で終わりではもったいないです。定年前でも、その後でも、チャレンジすると生きがいになるし、集中できることがあると人生が充実します。それができるサポートはとても意義深いと思います。

横川 そう言っていただけると励みになりますし、長く継続していきたいと思います。
 春日さんは、偉くなるぞーとか力んだところがまるでない自然体なのですが、それでも随所にすごい能力を発揮しておられます。最後にお聞きしたいのは、自分が面白いと思えることに出会ったとして、そこから新しい発見にいたるような、パワーとか心の持ちようの部分でヒントをいただけますか。

春日 いま考えると、アメリカに行ってたときは本当に研究に集中していたと思います。人間関係に変に気を使う必要もなかったし、日々研究のことしか考えていませんでした。スポーツで言うゾーンに入っているように、まさに没頭していたと思います。

横川 ありがとうございました。

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第4回 青木涼子さん

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第4回 青木涼子さん 第4回 青木涼子さん

能声楽家(Noh Singer)

生涯学習開発財団理事長・横川浩が各界で活躍される輝き人にお話を伺うシリーズ。自分の目指した道で能力を伸ばすためのヒント、そして人生の転機における新たなチャレンジや学びついてお伝えします。第4回は、能楽の「謡」の表現で国内外の音楽家とコラボし、現代音楽として新たなステージを切り拓く、「現代のミューズ」とも称される能声楽家の青木涼子さんです。

あおき りょうこ●能の「謡」を現代音楽に融合させた「能声楽」を生み出し、2013年テアトロ・レアル王立劇場での衝撃的なデビューを皮切りにヨーロッパを中心に活動。これまで世界20か国55人を超える作曲家たちと新しい楽曲を発表。名門オーケストラと共演するなど世界からのオファーが絶えない、現代音楽で最も活躍する国際的アーティストのひとり。

能楽700年のDNAを抱き
うたいで世界初の音楽を拓いていく

横川 前回までのゲストは、私自身が長くお付き合いのある方でしたが、青木さんは本日初めてお会いする方で、能声楽という新たな分野で世界的に活躍されています。ドキドキする緊張とともに、未知のお話が聞けるワクワク感を持って、この場に臨んでいます。
 実は誤解していたところがあり、700年の伝統がある能の世界で、新たな表現やジェンダーギャップも含め、風穴を開けようとされているのかと思っていたのですが、そういう気負ったチャレンジとは違うのですね。

青木 はい。能楽の謡という歌唱技術を活かして、現代音楽の分野でまったく新しい音楽表現にチャレンジしているのです。

横川 「能声楽家」という肩書もご自身で考えた新語なのですか。

青木 最初はどうしても、新しい能をしている人間と捉えられ、想像していたのと違うと言われることがよくありました。私の公演は、能面はつけていないし、舞わないし。ですので、誤解のないネーミングを考えました。

横川 なぜジャズやポップスではなく現代音楽とのコラボを選んだのですか。

青木 現代音楽はクラシックの延長上にあるからです。バッハやブラームスも当時は現代音楽でした。逆に、今の現代音楽も100年後にはクラシックと呼ばれることでしょう。それまで音楽素材ではなかったもの、ピアノや弦楽四重奏以外の表現も研究して、作曲家が新しく曲を作ってきた歴史が現代音楽にはあるのです。1960年以降、尺八や琴など和楽器を用いた曲も作曲家がたくさん作ってきています。なので、謡を活かすにはこのジャンルが一番いいのではないかと選びました。

ⓒ サントリーホール

初めて能を観てカッコいいと思った

横川 予習として青木さんのCD「夜の詞 能声楽とチェロのための作品集」を聴かせていただきました。シンガーですから当然ですが、引き込まれるいいお声をされてますね。

青木 ありがとうございます。子供の頃から声が低くて、みんなで合唱するときなどはキーが合わずコンプレックスでしたが、能の謡の表現にはそれが合ってたんですね。

横川 14歳で能を習い始めたそうですが、なにか今につながる予感があったのですか。

青木 小学生の夏休みに、家族で奈良にお寺を見に行きました。父親が建築家でお寺の設計を頼まれたのです。「すごくつまらい夏休みになりそう」と、子供心に思ったのですが、行ってみたら日本文化の素晴らしさと空間の美に感動したんです。それまでクラシックバレエをずっとやってましたが、伝統的な日本文化も学びたいという気持ちになりました。あるときテレビで解説付きの能の舞台を観て惹かれ、近くのカルチャースクールに通い始めたのが原点です。子供時代に、バレエと能という和洋の舞台芸術に惹かれて学んだことは、まちがいなく今につながっています。
 最初の能のお稽古の日、舞う気満々で行った私に先生が「能は謡が大事。まずは座って謡いなさい」と。そうしたら低い声が合ってたこともあり、独特の深みのある謡い方に魅力を感じていきました。

能楽師でも研究者でもない道を模索

横川 先生の勧めで東京藝大に進学されますが、そこで磨いたのは伝統的な能ですか。

青木 能楽観世流シテ方専攻という、代々能楽師の家の方が大多数のところで、修士課程を含めて6年間、基本的に実技でした。座学はほとんどなく、試験も能の実演です。

横川 その後、ロンドン大学の博士課程に留学し、博士号を取得されていますね。

青木 東京藝大の6年はどっぷりと能の世界に浸かっていたので、少し外から能を見るのもいいのではと思い留学しました。そのときは研究者になりたいと思っていて、ヨーロッパ最大の日本研究科があるロンドン大学にしたのです。
 ところが600ページの英語の博士論文が、指導教官から「もっと客観的にものを見なさい」とさんざんダメ出しされました。東京藝大の中は特殊で、能のことは「あれ、それ」で、1言えば10伝わる環境でしたので、私は能のことを客観的に見るということができていなかったんですね。能を知らない人に能を説明する、それを英語で客観的に書くという経験が、すごく勉強になって今につながっていると思います。

横川 博士論文は「女性と能」というテーマですが、やはり女性は少ないのですか。

青木 東京藝大の同期では私1人でしたが、他の学年にはもう少しいました。
 歌舞伎の創始者とされる出雲阿国のように、能も初期の頃は、女性も猿楽の舞台に立っていたのです。ただ、能も歌舞伎も人気が出るにつれ売春や風紀の乱れが目に余るようになり、徳川幕府によって女性の舞台出演が禁止されました。次に女性が公共の舞台に立つのは明治になってからでした。現在もプロの女性能楽師は少ないのですが、お稽古人口の大半は女性です。なので能楽を支えているのは女性と言えます。
 歌舞伎は、男性が女性を演じるのが芸として定着し、未だに女性は舞台に立てません。能のシテ(主役)は面をつけるので、男も女も関係なさそうですが、やはり声質の差はあります。能で女を演じる場合も、女の声色ではなく男性の声による謡で表現します。そこに女性の声が入ることに違和感を持つ人は多いのかもしれません。私は逆にその声を活かして、伝統的な能の世界でも研究の世界でもない、第3の道として、謡を現代音楽として活かす道を選ぶことができたのです。

横川 能の主役のシテはこの世の者ではない設定だそうですね。観ている人が想像し、それぞれ感じ方が違っていい。それを逆に共有するという面もある。そうした点で、能はもともと現代音楽とは相性が良い気がします。

青木 能の謡は、ベートーベンと何かやれと言われたら難しいですが、不協和音的な要素が多い現代音楽とはすごく合います。抽象性とちょっとした空白があって、想像力を働かせられます。
 ヨーロッパでは、現代音楽だけのコンサートや、クラシックのコンサートに1曲だけ現代曲が入っていることもあたりまえ。お客さんも新しい曲として私の謡を聴いてくれ、「なんだろう、聴いたことない不思議な声は。今日の歌手はソプラノじゃないけど面白いね」などと評価してくれる。後から日本の能だと知る。それをきっかけに日本の伝統文化や日本自体に興味を持ってくれたら、うれしいなと思っています。

現代音楽の作曲家に曲を依頼

横川 藝大在学中から他のジャンルとのコラボレーションをしていたのですか。

青木 学生のレベルですが始めていました。私は能の家出身じゃないので、縛られることなく好きなことができたのです。さらに大きなきっかけは、作曲家の湯浅譲二先生がずいぶん前に書かれた謡と西洋楽器のアンサンブル曲があって、何十年かぶりに再演したいから、謡わないかと声をかけていただいたことです。

横川 新曲委嘱世界初演シリーズ「現代音楽 × 能」を始めたのは2010年ですか。

青木 はい。それまではオファーがあれば受ける形でしたが、2010年から自ら動いて、港区の助成金も受けて、世界の作曲家に依頼して曲を書いていただき、楽器と謡のコラボをする活動を始めました。今のところ20か国55人以上の作曲家が曲を書いてくれています。
 謡とチェロの曲だったり、謡と弦楽四重奏の曲だったり。さらにその作曲家が「謡とオーケストラの曲が書きたい」と言って、オーケストラから依頼が来るなど、シリーズ以外にもどんどん広がっていきました。

横川 最初に依頼した相手は能を知っている方だったのですか。

青木 いえ、知りません。一番難しいのがそこで、日本人、外国人を問わず、現代音楽の作曲家さんは能のことを知らない方がほとんどです。音楽構造が全然違って、能の楽譜はお経みたいな感じです。最初は作曲家さんと無我夢中で曲をつくっていましたが、作曲家が能のどういうところを知りたいのか、ニーズは何か、だんだん分かってきたので、それをまとめたWEBサイト「作曲家のための謡の手引」をつくりました。作曲家が見て、西洋音楽と謡の違いと関連性が「あ、なるほど」と分かるようにしたのです。それからは直接会えない作曲家にも依頼しやすくなりました。

横川 それをご自身でつくられたということは、素材となる英語の文献やテキストがほとんどなかったということなんですね。

青木 はい。英語の文献も、能の台本を訳したものや場面の音楽の解説などはあるのですが、作曲家目線でぱっと見て分かるという資料はありませんでした。現代音楽の世界ではそういうサイトはよくあって、たとえばトロンボーン奏者が、従来の奏法だけでなくこんな特殊で新しい奏法ができますと、新しい曲を書くヒントになるサイトをつくっていました。似たようなものをつくれないかなと思ったのです。
 私たちも、能の従来の習い方で日本語で学んできたので、西洋音楽から見た謡の資料というのが日本語でもないのです。作曲家の人と、相談しながらサイトをつくりました。

ⓒ SihoonKim-TIMF2019
ⓒ Junichi Takahashi

特殊技術による幻想的な表現や遠隔地へのバーチャル出演なども積極的に取り組む。

誤解から名作が生まれてもいい

横川 楽譜は理解できたとしても、謡の面白さみたいなものを理解してもらえないと始まらないですよね。そういう機会は積極的につくられているのですか。初めての方にいきなりお願いすることもあるのですか。

青木 まずは知り合いを通じて打診して、動画だけでなく実際の公演に招待して興味を持ってもらうこともあります。初めての相手にも、その人の曲が好きでダメ元で頼むことはあります。その時は無理でも、「こんな声なんだ」と知っといてもらえたら何年か後に「書きたい」と連絡がきたりもするのです。

横川 基本的な謡い方は、能の謡から引用して謡うのですか。

青木 いえ、それぞれ違います。作曲家さんが謡の部分も作曲してきます。古典の通りに謡ってほしいという指示もありますが、大半は作曲家のオリジナルです。ですから作曲家にとってはけっこうハードルが高いはずです。テキストもみんな好きなのを選んできます。俳句や短歌を勉強して「藤原定家で書きたい」とか、宮沢賢治の死ぬ間際の詩を素材にしてきたイタリア人もいらっしゃいました。よくそんな詩を見つけてきたなと感心するほどです。
 私は能に似たものをつくりたいわけではなく、700年のDNAが進化させた新しい芸術を作りたいのです。能をよく理解して能らしくつくってほしいとは思いません。作曲家によっては楽譜をグラフィックのように書く方もいらっしゃいますが、その人の個性で新しい曲を書いてほしいのです。能のリズムはこうだからと私が勝手に変えることはしません。

横川 多様な感性の方とのコラボレーションですから、まったく予想がつかない不安と、わくわくと、両方ありそうですね。

青木 能の常識とはまったく違った視点で解釈した曲ができることもありますし、もはや謡でさえないなということもあります。しかし、長い芸術の歴史では、誤読とか誤解によって画期的な作品が生まれるということが起きてきました。そういうのが面白いのです。日本の伝統文化である能が影響を与えてそれが生まれると想像すると、すごくうれしく感じます。伝統を守る能楽という背景があるからこそ、そうではないチャレンジが面白いと思えるのです。

横川 伝統派からバッシングされるなど、苦難を乗り越えてのチャレンジ、といったストーリーも当初は想定したのですが、なかったですか。

青木 バッシングはないですね。そもそもジャンルもマーケットも違うので。
 苦難はけっこうありますよ。さんざん能をやってきて、自分の進むべき道がなかなか定まらなかったり、600ページの英語の博士論文に苦労したり。作曲家と噛み合わないこともありますし。でもネガティブに捉えないようにしています。

横川 今年もドイツ、スペイン、ポルトガル、オーストラリアなど、海外での公演が多いようですが、観客の反応が日本とは違うのでしょうか。

自分たちの文化を学ぶ大切さ

青木 ヨーロッパではジャンルに関わらず新しい音楽を楽しむ習慣があって、私の謡もその一つとして聴いて味わって、後から「これは日本の伝統の声なんだ」と知る感じですね。私の次の日にガムラン(鉄琴のようなインドネシアの民族打楽器)とオーケストラの共演があったりしても、日本だから良い、ガムランだから良いというのではなく、それぞれの楽曲の作品性や面白さを純粋に楽しんでおられます。
 日本は伝統が強固で、他の国から見るとそういう伝統を長くキープしている素晴らしさを評価されていると思います。ヨーロッパ人も自分たちの伝統を大切にしつつ、そこから新しいものを見出していくのがすごく上手で、いつも感心します。演奏者の方も、バッハも弾くけど現代音楽も弾くことができる。自分たちの伝統が身体に染み込んでいるからこそ、その幅があるのではないでしょうか。
 私は西洋に憧れてクラシックバレエを習っていましたが、日本の文化を知りたいとさらに能を学んだことで、ヨーロッパの観客とも通じ合える幅ができたのかなと思うのです。

横川 7月に浦和の二木屋さんという料亭でもコンサートをやられていますね。実は私の自宅はその近所なので、もう少し早く知っていたら行きたかったなと残念です。

青木 女将さんがずっと応援してくださっていて、いつかやりましょうというのが実現しました。コンサートのあとセッティングを変えて、皆さんとおいしい食事をいただく、とてもアットホームなイベントでした。

横川 サントリーホールのような会場だけでなくこういう規模でもお呼びすることが可能なら、当財団の交流会で会員の方々にご披露する機会を持てるかもしれませんね。

青木 実現できるとうれしいです。

横川 またすぐにドイツに発たれるそうで、エネルギッシュなスケジュールを拝見して驚きました。応援する立場からは、少し身体もいたわりつつご活躍いただければと思います。

青木 やはり世界に日本の良さが伝わるとうれしいのです。身体はきついときもありますが、音楽の力で日本と他の国の懸け橋になれたらと思っています。12月21日(水)19時より紀尾井ホールにて室内オーケストラとのコンサートもあります。ぜひお越しいただきたいです。

横川 本日はありがとうございました。

「Noh×Contemporary Music」税込価格3,080円 2014年発売

「夜の詞 能声楽とチェロのための作品集」税込価格3,080円 2021年発売

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第2回 坂東眞理子さん

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輝き人のチャレンジと学び

第2回 坂東眞理子さん 第2回 坂東眞理子さん

昭和女子大学理事長・総長
一般財団法人東京学校支援機構理事長

当財団理事長・横川浩が各界で活躍される輝き人にお話を伺うシリーズ。自分の目指した道で能力を伸ばすためのヒント、そして人生の転機における新たなチャレンジや学びついてお伝えします。第2回は、『女性の品格』で有名な坂東眞理子さんを、理事長・総長を務める昭和女子大学に訪ねました。二人が省庁在籍のまま留学したハーバード大学で始まったご縁です。

ばんどう まりこ●1946年富山県生まれ。69年東京大学卒業・総理府入省。78年に日本初の『婦人白書』執筆を担当。男女共同参画室長、埼玉県副知事、女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベン)、内閣府初代男女共同参画局長などを務め03年退官。昭和女子大学理事、教授などを経て、現職。06年の著書『女性の品格』は320万部を超える大ベストセラー

成功ばかりじゃないけど
自分の得意なことから始めれば
意外とできるもの

横川 お忙しい中、対談を快くお受けいただきありがとうございます。私と坂東さんのご縁は、1980年に留学したハーバード大学で同席したときからになります。当時、坂東さんは日本初の『婦人白書』をまとめられた後で、実は、霞ヶ関に名を響かせた女性が来ていると知ったうえでの、興味津々の出会いでした。

坂東 こちらこそ思い出していただき、ありがとうございます。

横川 そういうご縁ですので、まずは留学された経緯や目的をお聞かせいただけますか。

坂東 『婦人白書』のご褒美というわけではないですが、日本の女性の問題に詳しい人間ということで、ハーバードの客員研究員として選んでいただいたんです。社会で活動するミッドキャリアの人を1年間招いて、自分の研究をしてくださいというプログラムでした。

アメリカの女性が羽ばたいていた理由

坂東 その時の私の問題意識は「どうしてアメリカではこんなに女性が活躍しているんだろう。日本はできてないのに」。その秘密を探りたく、ボストン近辺にある企業の幹部クラスの女性25人にインタビューしました。冬のボストンは寒いのですが、住所を頼りに地下鉄に乗って、それこそ吹雪の中でオフィスを探してうろうろしたのを思い出します。

横川 アメリカの先行事例を調べて、その後の日本における女性活躍社会発展に、大きな役割を果たされたわけですね。

坂東 実は、アメリカの女性も初めから羽ばたいていたわけではなかったのです。1964年に、黒人、女性、その他マイノリティを差別しないという、市民権法ができましたが、アメリカでさえ当時、「こんな馬鹿げた法律は通らないだろう」と思われていたそうです。日本の雇用機会均等法は85年にできているので、日本よりも早いけどそんなに昔ではないのです。

彼女たちが口々に言っていたのは、まだ男性に比べて女性は差別されていて、ロールモデルがない、ネットワークがない、メンターがいないということでした。その後の日本でも、女性がやっと社会へ進出してくると、同じことを言い始めるんですね。

共通点と同時に、随分違うなと痛感したことがあります。アメリカの女性たちが自分の権利を主張し、守る意識の強さです。もし権利を侵害されたら訴訟をして、勝って、相手は莫大な賠償金で痛い目をみるんです。

それに比べて日本では、できた法律も努力義務とか、強制力がないものです。「みんなで、その方向で努力しましょうね」となる。コロナ対応もそうですけど、みんなの合意を取り付けて、やわやわと進んでいきます。変化するスピードの違いを感じます。

当時の私は、チームワークでみなの意見を尊重するやり方を、日本の良いところだと思っていました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか誉めそやされて。でも気がついたら、女性の社会進出でいえば、世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数」で、日本は156か国中の120位。日本国内だけを見ると、女性がどんどん登用されているように見えますが、他の国の変化のスピードに比べると遅くて、最後方グループになっているというのが現実です。

ハーバードで感じた生涯学習の喜び

横川 ハーバードといえば、大学で最も歴史あるクロコディロスという男声アカペラ合唱団があって、選抜された12人のメンバーが毎年夏休みに世界を周るのですが、その日本公演を財団の国際交流事業としてプロデュースしているのですよ。

坂東 そうなんですか。ぜひ昭和女子大学の人見記念講堂でもやってほしいですね。

横川 広中平祐さん・和歌子さんとのご縁もハーバードでの思い出の一つですね。お二人を見ていると、80、90歳まで学び続けることを体現されていて教えられます。

坂東 広中ご夫妻もそうですし、いろんな方と出会いました。アメリカ人のルーシーさんというユダヤ系の方とも40年ご縁が続いています。公務員の世界から別の世界に1年間身を置いたことが、その後の人生をとても豊かにしてくれていると感じます。

横川 当財団の前理事長・松田妙子さんは、亡くなる92歳まで現役で、いろいろな日本社会のあたりまえを打ち破ってきました。その一つが「生涯学習」の提言と実践でした。戦後、独学で英語を学んでアメリカ留学し、テレビ局に自ら売り込んでプロデューサーとして活躍しました。帰国後は、日本初のPR会社を起こし、住宅政策に深く携わった経験を生かし、71歳で東京大学の博士号を取得した人ですが、坂東さんはご存知ですか。

坂東 はい、何度かお目にかかったことがあります。いろんな面で大先輩ですね。お会いしたときは確かに「日本の住宅のレベルをもっと引きあげなくちゃ」と仰ってました。

私がハーバード留学で感じたもうひとつが、「仕事に就きながら大学で自分の研究をできるって、なんて楽しいことなんだろう!」と生涯学習の喜びを得たことです。ですので、財団さんの活動意義は大きいと思います。

昭和女子大にもそんな場があるといいなとずっと思っていて、「現代ビジネス研究所」という社会人を対象にした研究所を2013年につくりました。働きながら、もう一度大学で研究したい、勉強したい方は来てください、仕事を休まなくてもできますよということで、約100名の研究員がいらっしゃいます。

自分の実務経験を学生に伝えたり、教員といっしょに教壇に立ったりもしてもらっています。また、企業や自治体との協働プロジェクトに学生とともに参加していただくとか、いろんな活動をしていただいて、けっこう楽しんでいらっしゃいます。

集中的な学びが必要な時代

横川 当財団の事業の一つ 「50歳以上の博士号取得支援」の合格者は女性が4割で、年によっては6人中5人が女性だったときもあります。また財団が認定する協賛会員の資格を取得して、自分の講座を持って教えている方もたくさんいます。ですので財団周辺では女性が活躍しているのはあたりまえなのですが、坂東さんが総理府婦人問題担当室の最初の担当官となられた当時と現在を比べて、変わったと思うのはどんな点でしょうか?

坂東 学び直しというか、途中でバッテリーチャージすることが本当に大事になったと思いますね。人生が短い時代は22、3歳までに勉強したことでなんとか走りきれたかもしれませんが、変化が早くなったいま、片手間の勉強ではなく、途中で集中的に勉強しなければいけないと、ひしひしと感じます。

一度社会に出てからも、もう1回でも2回でも勉強して別の仕事について、生涯現役で活躍するようにしないと、自分たちの人生は豊かにならないし、社会も保てなくなってきているのだと思いますね。

横川 坂東さんの経歴を拝見すると、「女性初の」とか「初代の」といった枕詞がつくことが多いです。初であるが故の周りの方との多少の違和感みたいなものを、前向きな刺激にして活性化するような能力と人柄があるのではないかと。それこそが、初ものキャリアを成功させてきた秘訣でしょうか。

「初の」キャリアを成功させる秘訣?

坂東 決して成功ばかりじゃないですけど、よく言われるのは、90%成功する自信がないと一歩を踏み出さない人と、51%の自信があれば踏み出す人がいて、私は後者だろうと思います。自信がなくてもその場に置かれることで、意外とできるんだという発見や、喜びがあったと思います。

横川さんも共感されると思いますが、自分は公務員らしくないと思っていてもやっぱり公務員なんですよね。それが大学というまったく違う世界に来て、しばらくは「眞理子・イン・ワンダーランド」と言ってたくらい価値観が違う世界でした。公務員だと上司がいて部下がいて組織で動いていくのが当たり前ですが、大学では教授一人一人が一国一城の主で、専門的な研究や教育をしていて、どうしてこれで組織が動いていくんだろうと不思議だったのですよ。3年、5年経つうちに、ここはこういう論理で動かせばいいんだとわかってきました。

新しい世界に入るのは最初は怖いです。でも、すぐには適応できなくても、自分の知らなかった才能を発見することもありますよね。横川さんはその典型で、陸上競技連盟の会長になられたのに驚きました。

横川 埼玉県の副知事もそうですし、ブリスベンの総領事も初の女性でしたよね。

坂東 埼玉の時も地方自治はまったく初めてで、「地方自治法を読んだことあるの?」と嫌味を言われるくらいでした。通常はそういうケースでは出身官庁からも何人か一緒に行って助け合うものらしいのですが、私は一人っきりで最初は知らないことばかりでした。

それでも、自分のできることはなんだろう、地方自治全体のことはわからないけど、女性や高齢者の問題ならわかるなと、自分の得意な分野から広げていった感じです。

ブリスベン総領事のときも、外務省の仕事は初めてで、プロトコルとか知らないことばかりでしたが、現地の方がとても気がよくて、特に女性たちが応援してくれましたね。

横川 繰り返しますけど、それは坂東さんの人柄なんだと思いますね。

坂東 ありがとうございます。たぶん横川さんもそうでしょうが、副知事も総領事も、組織から「行けと言われればどこだって行きますよ」という気持ちだったですよ。でも今の人は辞令を待つのではなく、「自分が行きます」と手を上げて一歩を踏み出さなくちゃいけないのじゃないかな。そういう意味ではまだ私も20世紀の公務員だったと思います。

『女性の品格』で伝えたかったこと

横川 2006年に『女性の品格』を書かれ、320万部の大ベストセラーになりましたが、伝えたかったことはなんですか。

坂東 当時、「稼ぐが勝ち」という風潮が蔓延し、第一線の女性たちも男社会の権力指向や拝金主義位に追従する流れでした。しかし、女性が社会進出するということは、男性のように生きることではありません。女性ならではの思いやりや優しさを生かして社会の役に立つことですよと伝えたかったのです。

デビュー作は『女性は挑戦する』というタイトルで、20代の女性はチャンスがいっぱいあるんだから挑戦しましょうよという内容でした。50代、60代になった彼女たちに、今こそ勉強し直して、チャレンジしなくちゃいけないと言いたいです。若い女性は見た目がいいし、素直だし、魅力的なんですよ。歳をとると、もう自分は人から好かれないと自己評価が下がりがちです。人生まだ40年も50年もあるのだから、諦めずに世の中に必要とされる知識や技術を身につける、今流行りの「リスキリング」が必要だと思います。

横川 2019年に出版された『70歳のたしなみ』という本も話題になっていますね。

坂東 「たしなみ」というと昔は、技能や教養を身につけているという意味でしたが、この本では、いつまでも自分を見捨てず学び続けることが「たしなみ」だと言ってます。

特に強調したのが「機嫌良く振る舞うこと」です。歳をとるとみんな機嫌が悪くなりがちです。機嫌の悪い人が近くにいると周りも気分が下がってきます。機嫌良く振る舞うことは周りの人に対するマナーなんですよ。それと同時に、哲学者のアランが言ってるように、「作り笑いであっても、笑っていると自分自身が励まされる」と。うわべというと悪い言葉のようですが、形から入るのも大事です。

機嫌良く振る舞うことは
周囲へのマナーであると同時に自身への励まし

女子大の存在意義は

横川 「愛語」という言葉を座右の銘としていらっしゃるそうですが。

坂東 仏教の「和顔愛語わげんあいご」(和やかな顔と思いやりの言葉で人に接すること)の愛語なんです。相手の立場に立って慈しんで発する音葉を使おうと。逆に、いくら格好いいことを言っても、心に愛がなければ相手には通じないということです。

横川 昭和女子大学の教育ではどのような点に力を入れておられますか。

坂東 昔の女子大は良妻賢母を育てることが役割でした。20世紀の昭和女子大はその点において評価は高かったのですよ。でも今は、夫を通じて、子供を通じてではなくて、自分自身が社会とつながって輝ける人になってほしい。その力をつけようとしています。

私もそうでしたが、ずっと男女共学の学校にいると、学力が高い人が能力があって、評価もされるはずだというフィクションを信じているわけです。でも実社会に出ると、いろんな能力が必要なんだということが痛切にわかるんですね。学力だけでなく女性の総合力を身につける場所として、女子大学は存在意義があると思うのです。

「もう20年、30年経って、女性だから男性だからという偏見や女性特有の悩みなどもなくなれば、女子大の役割も終わるけど、まだまだ女性だから乗り越えなくてはいけない課題があるので、それを乗り越える力を育むのが女子大ですよ」と言っています。

昭和女子大学の構内。写真中央の1号館最上部には象徴的なカリヨン(大小21の連鐘)が見える。毎日4回、学園のうたなどの音色を奏でる。

女性活躍のブルー・オーシャン

横川 海外留学にも力を入れていますね。

坂東 社会で必要とされる能力はなんだろうと考えました。すでに男性がたくさん活躍しているところに後から行っても不利です。じゃあ人材が不足している分野はなんだろうと。今なら情報でしょうが、当時はグローバル化が課題で、男性のグローバル人材も多くはありませんでした。女性は語学も得意なのでそこをプッシュすれば可能性があると、国際学科を2009年に、グローバルビジネス学部・学科を2013年につくりました。グローバルが女性にとってのブルーオーシャンではないかと、力を入れています。

もともと、1988年にアメリカで全寮制キャンパス「昭和ボストン」を設立し、上海交通大学とも協定を結んでいましたが、当時4校だった海外の協定締結校が今は43校に増えました。

ほかにも管理栄養士とか、学校の先生といった資格は以前から取れましたが、いざという時のためだったのが、それを専門職としてやっていけるように能力をつけなさいと指導しています。

私が来て取り組んだのは、入学者を増やすためには出口を充実させるということ。キャリア支援センターをつくって、就職を手厚く支援しました。その結果、実就職率は、卒業生1000人以上の全国の女子大で11年連続トップです。

横川 まさに坂東さんの手腕と人間力発揮という感じですね。最後に、現在チャレンジ中の人や人生の転機で迷っている人に、メッセージをいただけますでしょうか。

人の頑張りを応援し合いましょう

坂東 あなたの中にはあなたが知らない可能性があります。頑張ってたら力が湧き上がってくるし、頑張る人には出会いがあります。地獄で仏様が救ってくれます。本を書くときも、うまく表現できないで、もがき苦しんでいると、結果的にいい本ができることが多いのです。そういう積み重ねだと思うので、最初からできないからと諦めないでと言いたいですね。頑張ってる人には誰かが手を差し伸べてくれるし、いい加減にやってたら世界は開けません。

もう一つ、人が頑張っているのを「いいね」と励ます。人の成功を、こんちくしょうと思う人がいるでしょ。つい比較しちゃう。頑張っている人同士が、お互いに応援し合うようになっていただきたいです。

横川 坂東さんの言葉と同時に、生き方そのものがヒントになる方が世の中にはたくさんいらっしゃると思います。
本日はありがとうございました!

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第1回 朝原宣治さん

理事長対談   
輝き人のチャレンジと学び

第1回 朝原宣治さん 第1回 朝原宣治さん

北京五輪陸上 4×100mリレー銀メダリスト
大阪ガス「NOBY T&F CLUB」主宰/一般社団法人アスリートネットワーク副理事長

当財団理事長 横川浩が各界で活躍される輝き人にお話を伺う新シリーズ。第1回は、横川が特別顧問だった大阪ガス陸上部や日本陸上競技連盟で同志ともいえる仲だった、北京五輪銀メダリストの朝原宣治さんが来てくださいました。

あさはら のぶはる●1972年6月21日生れ、兵庫県神戸市出身。陸上競技の100m、走り幅跳びで活躍し日本選手権で計8回優勝。世界陸上出場6度。オリンピックはアトランタ、シドニー、アテネ、北京と4回連続出場し、2008年北京大会の4×100mリレー銀メダルのときのアンカーを務めた。妻は奥野史子さん(バルセロナ五輪シンクロナイズドスイミング銅メダリスト)

速く走るため現役中から大切にした
「好奇心」「向上心」「主体性」

横川 今日はご多忙の中、来てくださってありがとうございます。

朝原 こちらこそ、長年お世話になりありがとうございました。第1回の対談相手にご指名いただき光栄です。

横川 朝原さんの陸上での活躍は多くの方がご存知でしょうが、最も有名なのは北京オリンピック4×100mリレーの銀メダルのシーンだと思います。そこに至るまでの経緯や、自分で工夫した点などについて、まずはお聞かせください。

のびのびと陸上を楽しんで日本一に

朝原 陸上を始めたのは高校からなんです。子供のころはサッカーや野球が好きで、足は速かったのですが、ただ走るだけでは楽しさを感じませんでした。中学校は入りたかったサッカー部がなくて、ハンドボール部に入りました。けっこう強くて、私たちが3年の時には全国大会に初出場を果たします。そのぶん練習は厳しくて、土日もほぼ練習でした。ハンドボールを続ける道もあったのですが、高校では「楽しんで部活をしたいなあ」と思って、友人に誘われた陸上を選びました。そのときは何かを極めるよりも、いろんなことをしたい好奇心の方が強かったのですね。

横川 その高校ですが、スポーツが盛んというより、兵庫県でも歴史ある進学校で知られる県立夢野台高校ですよね。

朝原 そうなんです。顧問の先生も、スポ根ではなく自主性を重んじる方でしたので、自由にのびのびと陸上競技を楽しむ雰囲気の部活でした。そのぶん練習は自己流ですから、初めはあまり記録は伸びませんでした。

横川 それでもインターハイの走り幅跳びで優勝しておられます。

朝原 遠征や合同合宿の際、あちこちの先生方に指導を仰いだのが良かったと思います。転機という意味では、高3のときアジアジュニア選手権に出場するため、初めての海外遠征(北京)に行ったことです。もともと海外への憧れは強かったのですが、実際に日本を出てみて、文化や習慣、街の匂いまで違うことに驚き、ますます海外で活躍したいと思うようになりました。

でもそれは、商社や旅行会社などの仕事をしているイメージで、陸上で、ましてやオリンピックでなんて思いもしませんでした。高校卒業の際に、陸上が強い大学からスカウトがあったときも、就職を考えて同志社大学に進学したくらいです。

オリンピック

横川 同志社大学といえば、当財団の前理事長・松田妙子の大叔父で、日本の体育の父と呼ばれることもある大森兵蔵は、同志社普通校(同志社大学の前身)に在籍したそうで、その後アメリカ留学し、バスケットボールやバレーボールを日本に紹介しているのです。日本が初参加したオリンピック(1912年ストックホルム大会)で監督として率いた人物で、NHKの大河ドラマ「いだてん」では、竹野内豊さんが演じていました。

朝原 え、そうなんですか! 「いだてん」で観た気がします。陸上競技に金栗四三さんと三島弥彦さんが出場されたときですよね。もともとすごいご縁があったんですね。

横川 私も驚きました。同志社に入ってからオリンピックを目指し、アトランタから北京まで4大会も連続で出場されたのですね。

朝原 はい。大学2年のとき、同級生だったシンクロの奥野史子や競泳の川中恵一がバルセロナ五輪(1992年)に出場したのに刺激を受けて、次は自分も出たいと真剣に取り組むようになりました。翌年に初めて100mの日本記録を出して、アトランタ五輪(1996年)で100m、走り幅跳び、4×100mリレーで代表になれました。

その後利き足にケガをして、シドニー五輪(2000年)、アテネ五輪(2004年)は100mとリレーに専念することになります。個人では準決勝進出にとどまりましたが、リレーでは日本がいいとこに行くようになっていました。

横川 そしてなんと36歳で、あの北京五輪(2008年)のメダル獲得シーンが。

朝原 そのころは横断幕に「中年の星」と書いてあったりしましたね。個人では2次予選敗退で、やはり体力的に厳しい結果でした。

リレーは予選を3位通過したので、このままいけばメダルかと意識して決勝前はけっこう緊張していました。ゴールしたときは3着か4着かわからなくて、ダメかと思ってたところに3着とわかったので、バトンを放り投げて喜ぶシーンになってしまったのです。

他の国が予選で失格になったり、ドーピング違反で後に銅から銀に繰り上げになったりもしましたが、結果としては、その後の日本リレーチームの自信と目標になっていると思います。

実は北京は4回目のオリンピックですし、どうしても出たいというモチベーションはなかったのです。ただ、その前年2007年の大阪世界陸上は、地元ということもあって「大阪で活躍をして引退の花道に」という強い思いはありました。ですから北京はおまけみたいなもんだったのですが、他のリレーメンバーとのめぐり合わせもあって、いい花道になりました。

速く走るために人間力を磨く

横川 自分が目指した道で力をつけていくために大切なことは何だと考えますか。

朝原 私が現役中から大切にしているのは、「好奇心」「向上心」「主体性」です。外国まで行って早く走る方法を学んだように、興味があればいろんな指導者に教えを乞いましたし、他の競技の人からヒントを貰うことも多くありました。

横川 「速く走るために人間力を磨く」ともおっしゃってますね。

朝原 試合で走るのは選手ですが、そこまでの準備をするのにたくさんの人の力を借りています。コーチやトレーナーはもちろんのこと、競技を続ける環境を整えてくれている所属先、用具メーカー、家族、励ましてくれる仲間たち……。皆から応援してもらえる選手でないといい準備はできません。

シドニー五輪の前に骨折したことは、選手生命に関わるネガティブな出来事でしたが、自分のことだけでなく後輩や陸上界全体のことを考え、知識や視野を広げる良い機会にもなりました。そのおかげで36歳まで現役を続けられたと思います。そうした物事の捉え方や向き合い方も含めて「人間力」が大切だと思うのです。

横川 座右の銘などがあれば教えてください。

朝原 座右の銘は特に無くて、色紙にはその時々で思うことを書き添えていますね。アスリートとしては、人事を尽くして天命を待つ境地にはよくなりました。あと、何かを決めるときに自分にウソはつきたくないというのが、自分なりの美学というか行動理念ですかね。アテネ五輪で引退しようか迷ったときも、自分の中で「大阪の世界陸上で地元ファンの前で活躍したい」という思いが湧いてきて、それを原動力にして取り組んだ結果が、北京のメダルだったと感じます。

大阪ガス

横川 私が大阪ガス陸上競技部の特別顧問になった2003年には、すでに朝原さんはトップアスリートだったのですが、朝原さんにとっての大阪ガスはどういう存在ですか。

朝原 1995年の入社以来ですから、もうすぐ在籍27年になります。海外留学や遠征も含め、ずっと競技生活を支援してもらっています。横川さんとは近畿圏部という部署に在籍したときに、上司と部下の関係でもありましたね。

なにより、日本で大会があるときに、応援をしに会場に来てくださるのが本当にありがたく、ものすごく力になりました。特に2007年の世界陸上は地元大阪で開催だったため、大阪ガスの方々が約2000人の大応援団を組んで長居競技場に来てくださいました。メダルには届きませんでしたが100mで準決勝進出、リレーはアジア新で5位と健闘できました。

北京五輪直後の2008年9月に川崎で開催されたスーパー陸上を引退試合として盛り上げてくれたのも会社の方々です。ウサイン・ボルトから花束をもらって本当にうれしかったのを覚えています。

横川 御堂筋ストリート陸上もありました。

朝原 そうそう。御堂筋に直線のトラックを敷いて、僕やハードルの為末大さんが子供たちの目の前を走るんですよ。あれもすごい人数が集まりましたね。そうした普及イベントなんかも応援してくださいます。現在も会社の地域貢献活動として私が主宰するクラブ運営のために「地域活力創造チーム」という部署を作っていただき、グラウンドや施設の使用でも協力してくださるなど、感謝しています。

海外留学や大学院で学ぶ

横川 早くから海外留学してトレーニングや試合をしていましたね。

朝原 もともと海外志向が強かったので、大阪ガスに入社してすぐにドイツに留学させていただきました。幅跳びが専門のアルフレッド・ラップコーチの指導を受けました。ただしコーチを受けたのは完全に技術面だけで、食事の管理や生活面などは自身で考えて行うやり方でした。それで栄養や睡眠回復のことを勉強したことも大きいです。シドニー五輪後にドイツから日本に戻りましたが、その後アメリカにも留学しています。ダン・パフというアメリカでも有名なコーチで、こちらは練習メニューからコンディションの管理まで細かく指導する方でした。

いろんなタイプの人の指導を受けたことが、僕にはいい経験になっていると思います。試合の宿舎では各国の選手と部屋が一緒になって、言葉も習慣も違う人たちと過ごすのも楽しかったです。

さらに海外では、地域密着型の陸上競技クラブがあり、私がドイツに行って最初に教えられたのはクラブに入会することでした。試合にはクラブのユニフォームで出ますし、クラブでコーチをすることは引退したアスリートの仕事として成り立っていました。海外のアスリートが地域に対して果たしている役割に触れたことも、引退後の現在の活動につながっているのです。

横川 現役中から大学院へ通って研究されていますね。

朝原 2006年、34歳のときからです。やはり引退後のことも考えて、現役で発信力があるうちにデュアルキャリアの足がかりを作りたいと考えたのですが、午前中は仕事、午後は練習、夕方から大学という生活でけっこうきつかったですね。同志社大学大学院 総合政策科学研究科に所属して取り組んだのは、企業スポーツの新しい形の模索でした。日本企業の運動部は会社の宣伝が第一目的ですが、所属するアスリートを人材として活用する道や、CSRとして地域にどう貢献していけるかなどを研究しました。もちろん引退後から現在までの活動につなげています。

どこかに余裕というか
楽しみながらチャレンジを

地域型陸上クラブ

横川 現役引退してから、具体的にどのような活動をされていますか。

朝原 ひとつは、2010年に大阪ガスのサポートもいただいて設立した「NOBY T&F CLUB」という地域型の運動・陸上クラブです。クラブ名には「伸びる」の「のび」と「New Opportunity Before You(夢に向かって挑戦しようとする人に新たな機会を提供しよう)」という思いを込めています。「夢をあきらめず、自分を信じてチャレンジしよう」という理念のもと、子どもたちが学校以外でもスポーツを通じて成長していける場を目指しています。

小学生向けのかけっこが楽しくなるコースやトップアスリートを目指すコース、一般の人が運動を楽しむコースなど、下は小学校1年生から上は85歳の方までの会員がいらっしゃいます。85歳の方は、79歳から陸上を始めて、今ではマスターズ陸上にも出場しています。その方は野球も大好きなのですが、陸上という枠にとらわれずいろいろな競技と横の連携を広げています。

指導するのは引退したアスリートたちで、ときにはパラ陸上の山本篤選手らにも登場してもらって、パラ・スポーツにふれる機会も作っています。

会社の地域活力創造プロジェクトとしてはほかに、中高年の方が健康で若々しく生きるための情報発信をする「10歳若返り隊」、アスリートが健康な食生活と体づくりのヒントを発信する「アスリート食・DO」を行っています。

アスリートの人材活用

朝原 もうひとつは、一般社団法人アスリートネットワークを、こちらも2010年に設立しました。アスリートの経験をセミナーなどの形で、自治体や企業の要望に応えて提供しています。バレーボール女子日本代表の元監督・柳本晶一さんを中心に、奥野史子さん、巽樹理さん(アーティスティックスイミング)、根木慎志さん(車いすバスケット)、山本篤さん(パラ陸上)、森島寛晃さん(サッカー)、岡本依子さん(テコンドー)、松下浩二さん(卓球)、浅越しのぶさん(テニス)らが中心メンバーとして参加してくれています。アスリートのセカンドキャリアを皆で支援して行こうという先を見据えた取り組みだったのですが、今ではずいぶん普及してきました。

横川 生涯スポーツの国際大会である、ワールドマスターズ陸上のアンバサダーもされているんですよね。

朝原 はい。「ワールドマスターズゲームズ2021関西」です。コロナで再延期されていますが、開催されたらぜひ応援しに来てください。マスターズには選手としてもチャレンジしていて、2019年にはM45というクラスで4×100mリレーの一員として世界記録を作りました。もちろん今回も参加して記録更新を目指したいと思っています。

横川 私は昨年、日本陸連の会長から名誉会長になり、第一線からは退きましたが、入れ替わるように朝原さんが理事に就任してくださいました。陸連の使命は「頂は高く、裾野は広く」だと思います。朝原さんには強化から普及までどんな場面でもご活躍いただける能力と経験があるので、期待してます。

朝原 いろんなご縁のある横川さんのエールに応えられるよう頑張りますので、ご指導よろしくお願いいたします。

楽しみながらチャレンジに向き合う

横川 これから新たにやりたい取り組みやチャレンジしたいことはありますか。

朝原 スポーツと隣接してですけど、「健康」と「農業」というキーワードで取り組みたいことがあります。健康では、スポーツ庁と大阪大学などによるSRIP(Sports Research Innovation Project)というプロジェクトがあり、競技力向上だけでなく、ケガの予防や障害からの復帰、さらには健康寿命の延伸も期待できそうなんです。

農業では、脱農薬や自然農法に興味を持っています。たとえばサプリメントの代わりに無農薬野菜の粉末を摂取するとか、そういうことも競技力向上や健康づくりに寄与できるのではと考えているところです。

横川 最後に、いま人生の転機を迎えていたり、これからチャレンジしたい読者の方々へメッセージをいただけますか。

朝原 好奇心を持って新しいことに動き始めると、いろんな出会いが向こうからやってきます。出会いによって、自分が正しいと思ってたことだけが唯一の選択肢ではないとわかることもあります。ただし、自分自身の内的なモチベーションだけは大切にしています。周りとの関係で使命感が強すぎると、自分がきつくなって、本職に影響したり生きるバランスが崩れたりしがちです。どこかに余裕というか、楽しみながら向き合うと良いのではないでしょうか。

横川 本日はありがとうございました。

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