生涯学習情報誌

理事長対談   
輝き人のチャレンジと学び

第1回 朝原宣治さん 第1回 朝原宣治さん

北京五輪陸上 4×100mリレー銀メダリスト
大阪ガス「NOBY T&F CLUB」主宰/一般社団法人アスリートネットワーク副理事長

当財団理事長 横川浩が各界で活躍される輝き人にお話を伺う新シリーズ。第1回は、横川が特別顧問だった大阪ガス陸上部や日本陸上競技連盟で同志ともいえる仲だった、北京五輪銀メダリストの朝原宣治さんが来てくださいました。

あさはら のぶはる●1972年6月21日生れ、兵庫県神戸市出身。陸上競技の100m、走り幅跳びで活躍し日本選手権で計8回優勝。世界陸上出場6度。オリンピックはアトランタ、シドニー、アテネ、北京と4回連続出場し、2008年北京大会の4×100mリレー銀メダルのときのアンカーを務めた。妻は奥野史子さん(バルセロナ五輪シンクロナイズドスイミング銅メダリスト)

速く走るため現役中から大切にした
「好奇心」「向上心」「主体性」

横川 今日はご多忙の中、来てくださってありがとうございます。

朝原 こちらこそ、長年お世話になりありがとうございました。第1回の対談相手にご指名いただき光栄です。

横川 朝原さんの陸上での活躍は多くの方がご存知でしょうが、最も有名なのは北京オリンピック4×100mリレーの銀メダルのシーンだと思います。そこに至るまでの経緯や、自分で工夫した点などについて、まずはお聞かせください。

のびのびと陸上を楽しんで日本一に

朝原 陸上を始めたのは高校からなんです。子供のころはサッカーや野球が好きで、足は速かったのですが、ただ走るだけでは楽しさを感じませんでした。中学校は入りたかったサッカー部がなくて、ハンドボール部に入りました。けっこう強くて、私たちが3年の時には全国大会に初出場を果たします。そのぶん練習は厳しくて、土日もほぼ練習でした。ハンドボールを続ける道もあったのですが、高校では「楽しんで部活をしたいなあ」と思って、友人に誘われた陸上を選びました。そのときは何かを極めるよりも、いろんなことをしたい好奇心の方が強かったのですね。

横川 その高校ですが、スポーツが盛んというより、兵庫県でも歴史ある進学校で知られる県立夢野台高校ですよね。

朝原 そうなんです。顧問の先生も、スポ根ではなく自主性を重んじる方でしたので、自由にのびのびと陸上競技を楽しむ雰囲気の部活でした。そのぶん練習は自己流ですから、初めはあまり記録は伸びませんでした。

横川 それでもインターハイの走り幅跳びで優勝しておられます。

朝原 遠征や合同合宿の際、あちこちの先生方に指導を仰いだのが良かったと思います。転機という意味では、高3のときアジアジュニア選手権に出場するため、初めての海外遠征(北京)に行ったことです。もともと海外への憧れは強かったのですが、実際に日本を出てみて、文化や習慣、街の匂いまで違うことに驚き、ますます海外で活躍したいと思うようになりました。

でもそれは、商社や旅行会社などの仕事をしているイメージで、陸上で、ましてやオリンピックでなんて思いもしませんでした。高校卒業の際に、陸上が強い大学からスカウトがあったときも、就職を考えて同志社大学に進学したくらいです。

オリンピック

横川 同志社大学といえば、当財団の前理事長・松田妙子の大叔父で、日本の体育の父と呼ばれることもある大森兵蔵は、同志社普通校(同志社大学の前身)に在籍したそうで、その後アメリカ留学し、バスケットボールやバレーボールを日本に紹介しているのです。日本が初参加したオリンピック(1912年ストックホルム大会)で監督として率いた人物で、NHKの大河ドラマ「いだてん」では、竹野内豊さんが演じていました。

朝原 え、そうなんですか! 「いだてん」で観た気がします。陸上競技に金栗四三さんと三島弥彦さんが出場されたときですよね。もともとすごいご縁があったんですね。

横川 私も驚きました。同志社に入ってからオリンピックを目指し、アトランタから北京まで4大会も連続で出場されたのですね。

朝原 はい。大学2年のとき、同級生だったシンクロの奥野史子や競泳の川中恵一がバルセロナ五輪(1992年)に出場したのに刺激を受けて、次は自分も出たいと真剣に取り組むようになりました。翌年に初めて100mの日本記録を出して、アトランタ五輪(1996年)で100m、走り幅跳び、4×100mリレーで代表になれました。

その後利き足にケガをして、シドニー五輪(2000年)、アテネ五輪(2004年)は100mとリレーに専念することになります。個人では準決勝進出にとどまりましたが、リレーでは日本がいいとこに行くようになっていました。

横川 そしてなんと36歳で、あの北京五輪(2008年)のメダル獲得シーンが。

朝原 そのころは横断幕に「中年の星」と書いてあったりしましたね。個人では2次予選敗退で、やはり体力的に厳しい結果でした。

リレーは予選を3位通過したので、このままいけばメダルかと意識して決勝前はけっこう緊張していました。ゴールしたときは3着か4着かわからなくて、ダメかと思ってたところに3着とわかったので、バトンを放り投げて喜ぶシーンになってしまったのです。

他の国が予選で失格になったり、ドーピング違反で後に銅から銀に繰り上げになったりもしましたが、結果としては、その後の日本リレーチームの自信と目標になっていると思います。

実は北京は4回目のオリンピックですし、どうしても出たいというモチベーションはなかったのです。ただ、その前年2007年の大阪世界陸上は、地元ということもあって「大阪で活躍をして引退の花道に」という強い思いはありました。ですから北京はおまけみたいなもんだったのですが、他のリレーメンバーとのめぐり合わせもあって、いい花道になりました。

速く走るために人間力を磨く

横川 自分が目指した道で力をつけていくために大切なことは何だと考えますか。

朝原 私が現役中から大切にしているのは、「好奇心」「向上心」「主体性」です。外国まで行って早く走る方法を学んだように、興味があればいろんな指導者に教えを乞いましたし、他の競技の人からヒントを貰うことも多くありました。

横川 「速く走るために人間力を磨く」ともおっしゃってますね。

朝原 試合で走るのは選手ですが、そこまでの準備をするのにたくさんの人の力を借りています。コーチやトレーナーはもちろんのこと、競技を続ける環境を整えてくれている所属先、用具メーカー、家族、励ましてくれる仲間たち……。皆から応援してもらえる選手でないといい準備はできません。

シドニー五輪の前に骨折したことは、選手生命に関わるネガティブな出来事でしたが、自分のことだけでなく後輩や陸上界全体のことを考え、知識や視野を広げる良い機会にもなりました。そのおかげで36歳まで現役を続けられたと思います。そうした物事の捉え方や向き合い方も含めて「人間力」が大切だと思うのです。

横川 座右の銘などがあれば教えてください。

朝原 座右の銘は特に無くて、色紙にはその時々で思うことを書き添えていますね。アスリートとしては、人事を尽くして天命を待つ境地にはよくなりました。あと、何かを決めるときに自分にウソはつきたくないというのが、自分なりの美学というか行動理念ですかね。アテネ五輪で引退しようか迷ったときも、自分の中で「大阪の世界陸上で地元ファンの前で活躍したい」という思いが湧いてきて、それを原動力にして取り組んだ結果が、北京のメダルだったと感じます。

大阪ガス

横川 私が大阪ガス陸上競技部の特別顧問になった2003年には、すでに朝原さんはトップアスリートだったのですが、朝原さんにとっての大阪ガスはどういう存在ですか。

朝原 1995年の入社以来ですから、もうすぐ在籍27年になります。海外留学や遠征も含め、ずっと競技生活を支援してもらっています。横川さんとは近畿圏部という部署に在籍したときに、上司と部下の関係でもありましたね。

なにより、日本で大会があるときに、応援をしに会場に来てくださるのが本当にありがたく、ものすごく力になりました。特に2007年の世界陸上は地元大阪で開催だったため、大阪ガスの方々が約2000人の大応援団を組んで長居競技場に来てくださいました。メダルには届きませんでしたが100mで準決勝進出、リレーはアジア新で5位と健闘できました。

北京五輪直後の2008年9月に川崎で開催されたスーパー陸上を引退試合として盛り上げてくれたのも会社の方々です。ウサイン・ボルトから花束をもらって本当にうれしかったのを覚えています。

横川 御堂筋ストリート陸上もありました。

朝原 そうそう。御堂筋に直線のトラックを敷いて、僕やハードルの為末大さんが子供たちの目の前を走るんですよ。あれもすごい人数が集まりましたね。そうした普及イベントなんかも応援してくださいます。現在も会社の地域貢献活動として私が主宰するクラブ運営のために「地域活力創造チーム」という部署を作っていただき、グラウンドや施設の使用でも協力してくださるなど、感謝しています。

海外留学や大学院で学ぶ

横川 早くから海外留学してトレーニングや試合をしていましたね。

朝原 もともと海外志向が強かったので、大阪ガスに入社してすぐにドイツに留学させていただきました。幅跳びが専門のアルフレッド・ラップコーチの指導を受けました。ただしコーチを受けたのは完全に技術面だけで、食事の管理や生活面などは自身で考えて行うやり方でした。それで栄養や睡眠回復のことを勉強したことも大きいです。シドニー五輪後にドイツから日本に戻りましたが、その後アメリカにも留学しています。ダン・パフというアメリカでも有名なコーチで、こちらは練習メニューからコンディションの管理まで細かく指導する方でした。

いろんなタイプの人の指導を受けたことが、僕にはいい経験になっていると思います。試合の宿舎では各国の選手と部屋が一緒になって、言葉も習慣も違う人たちと過ごすのも楽しかったです。

さらに海外では、地域密着型の陸上競技クラブがあり、私がドイツに行って最初に教えられたのはクラブに入会することでした。試合にはクラブのユニフォームで出ますし、クラブでコーチをすることは引退したアスリートの仕事として成り立っていました。海外のアスリートが地域に対して果たしている役割に触れたことも、引退後の現在の活動につながっているのです。

横川 現役中から大学院へ通って研究されていますね。

朝原 2006年、34歳のときからです。やはり引退後のことも考えて、現役で発信力があるうちにデュアルキャリアの足がかりを作りたいと考えたのですが、午前中は仕事、午後は練習、夕方から大学という生活でけっこうきつかったですね。同志社大学大学院 総合政策科学研究科に所属して取り組んだのは、企業スポーツの新しい形の模索でした。日本企業の運動部は会社の宣伝が第一目的ですが、所属するアスリートを人材として活用する道や、CSRとして地域にどう貢献していけるかなどを研究しました。もちろん引退後から現在までの活動につなげています。

どこかに余裕というか
楽しみながらチャレンジを

地域型陸上クラブ

横川 現役引退してから、具体的にどのような活動をされていますか。

朝原 ひとつは、2010年に大阪ガスのサポートもいただいて設立した「NOBY T&F CLUB」という地域型の運動・陸上クラブです。クラブ名には「伸びる」の「のび」と「New Opportunity Before You(夢に向かって挑戦しようとする人に新たな機会を提供しよう)」という思いを込めています。「夢をあきらめず、自分を信じてチャレンジしよう」という理念のもと、子どもたちが学校以外でもスポーツを通じて成長していける場を目指しています。

小学生向けのかけっこが楽しくなるコースやトップアスリートを目指すコース、一般の人が運動を楽しむコースなど、下は小学校1年生から上は85歳の方までの会員がいらっしゃいます。85歳の方は、79歳から陸上を始めて、今ではマスターズ陸上にも出場しています。その方は野球も大好きなのですが、陸上という枠にとらわれずいろいろな競技と横の連携を広げています。

指導するのは引退したアスリートたちで、ときにはパラ陸上の山本篤選手らにも登場してもらって、パラ・スポーツにふれる機会も作っています。

会社の地域活力創造プロジェクトとしてはほかに、中高年の方が健康で若々しく生きるための情報発信をする「10歳若返り隊」、アスリートが健康な食生活と体づくりのヒントを発信する「アスリート食・DO」を行っています。

アスリートの人材活用

朝原 もうひとつは、一般社団法人アスリートネットワークを、こちらも2010年に設立しました。アスリートの経験をセミナーなどの形で、自治体や企業の要望に応えて提供しています。バレーボール女子日本代表の元監督・柳本晶一さんを中心に、奥野史子さん、巽樹理さん(アーティスティックスイミング)、根木慎志さん(車いすバスケット)、山本篤さん(パラ陸上)、森島寛晃さん(サッカー)、岡本依子さん(テコンドー)、松下浩二さん(卓球)、浅越しのぶさん(テニス)らが中心メンバーとして参加してくれています。アスリートのセカンドキャリアを皆で支援して行こうという先を見据えた取り組みだったのですが、今ではずいぶん普及してきました。

横川 生涯スポーツの国際大会である、ワールドマスターズ陸上のアンバサダーもされているんですよね。

朝原 はい。「ワールドマスターズゲームズ2021関西」です。コロナで再延期されていますが、開催されたらぜひ応援しに来てください。マスターズには選手としてもチャレンジしていて、2019年にはM45というクラスで4×100mリレーの一員として世界記録を作りました。もちろん今回も参加して記録更新を目指したいと思っています。

横川 私は昨年、日本陸連の会長から名誉会長になり、第一線からは退きましたが、入れ替わるように朝原さんが理事に就任してくださいました。陸連の使命は「頂は高く、裾野は広く」だと思います。朝原さんには強化から普及までどんな場面でもご活躍いただける能力と経験があるので、期待してます。

朝原 いろんなご縁のある横川さんのエールに応えられるよう頑張りますので、ご指導よろしくお願いいたします。

楽しみながらチャレンジに向き合う

横川 これから新たにやりたい取り組みやチャレンジしたいことはありますか。

朝原 スポーツと隣接してですけど、「健康」と「農業」というキーワードで取り組みたいことがあります。健康では、スポーツ庁と大阪大学などによるSRIP(Sports Research Innovation Project)というプロジェクトがあり、競技力向上だけでなく、ケガの予防や障害からの復帰、さらには健康寿命の延伸も期待できそうなんです。

農業では、脱農薬や自然農法に興味を持っています。たとえばサプリメントの代わりに無農薬野菜の粉末を摂取するとか、そういうことも競技力向上や健康づくりに寄与できるのではと考えているところです。

横川 最後に、いま人生の転機を迎えていたり、これからチャレンジしたい読者の方々へメッセージをいただけますか。

朝原 好奇心を持って新しいことに動き始めると、いろんな出会いが向こうからやってきます。出会いによって、自分が正しいと思ってたことだけが唯一の選択肢ではないとわかることもあります。ただし、自分自身の内的なモチベーションだけは大切にしています。周りとの関係で使命感が強すぎると、自分がきつくなって、本職に影響したり生きるバランスが崩れたりしがちです。どこかに余裕というか、楽しみながら向き合うと良いのではないでしょうか。

横川 本日はありがとうございました。

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