生涯学習講演会

生涯学習開発財団シンポジウム
多元的共生社会におけるコミュニケーションシリーズ第2回

「学びとアート」の関係を問い直す

[日時] 2013年6月16日(日)

[会場] 東京大学情報学環福武ホールラーニングシアター

[プログラム構成]
講演:佐伯胖氏(青山学院大学ヒューマン・イノベーション研究センター所長)
ナビゲート:苅宿俊文

■佐伯先生講演 Part1

苅宿先生より佐伯先生の紹介があり、佐伯先生が登壇しました。

「学び」とはなにか?

「学びは勉強と同じか違うか?」という問いからお話が始まりました。「そりゃ違うでしょという人も多いと思いますが、教育っていうものを考えている人は、結局勉強をさせているということになっていることにお気付きになっていない。自分は学びを育てているんだと思っているけど、どう考えても私には勉強をさせようとしている、としか見えない。」勉強とは何か?勉強とは、「問いが最初にある。どこかに正解があるものだと思っている。自分の記憶を探して答えを出そうとしているもの。How-toが分かれば一挙にそれで落着だと考える方法。聞いているふりや、分かったふりでWhatやWhyを問う演技をしているようだ」と佐伯先生は指摘します。

勉強と学びの違い

勉強とは、「答えがほしい。勉強が分からないということは恥ずかしい。うまいやり方、有効なやり方を教えてしまえばいい。自分で考えるより、分かっていることで解けばいい。学びとは、本当のことが分かりたい。分からないということが分かれば楽しい。いろんなやり方で吟味してみる。」
このようにまとめた表を見ながら、小学生の子どもの話に続きます。

ある先生が「自分でおやっと思ったことを、自分で確かめるってことがありなんだと思った。」と話した小学生の話にとても感動していた。一緒に三角形の条件について試行錯誤した経験が子どもにそのような思いをもたらしていたのだそうです。

「教えが先にあるということが大前提で、教えに従うのが勉強だ。教えるってどういうこと?教わる側の子どもにとってはどういうことなのだろう。」佐伯先生は問いを深めます。
※ここでチンパンジーと人間の実験のビデオを観る。

【箱をたたいてから飴を取るという行動をチンパンジーと子どもに教えた映像】を見ながら解説していきます。

「教わるということは、考えないスイッチが入ってしまうこと。つまり自らWhatやWhyを問わなくてよい。WhatやWhyは誰かエライ人が考え、そのコタエ(「正解」)を見つけてくれたのだから、私たちはそのコタエだけを知れば良い。教えるっていうことをしている人は、そういうことをしているということを自覚すべきである。」ここで、教える側の認識を指摘していきます。
子どもは教わりたがっている。それに答えてあげるのが教育だ!」と考える方もいるがここに落とし穴がある。子どもは教えている人の暗黙の要求に必死で応えようとする思考があり、教える人の意図を先取りしようとする。何をやってほしいのか、どうやってほしいのかということを言われなくても分かるようになることに、一生懸命になる。そして教師の意図を先取りする子どもたちによって進められていくと、子どもたちが生き生きと発言している「みごとな」授業ができあがる。しかし、人間は本当に教え 教えられる存在なんだろうか。」

学校と教育

「学校」以前の「教育」として1830年代を振り返ってみます。
貧困の児童に教育が重要だと広めていたバーンズは、靴作りをしながら、半身に構えた姿勢のままで、子どもたちに文字を教えていたそうです。その当時、教育は専業でやるものではなく、子どもが学ぼうとしているときに手伝ってあげるのが教育であったようです。「しかしその後『教育』が『教える』という技術になってしまった。ホモ•・ファーベル(工作人)的に、教育もそれと同じようなものだ。近代は教育を誘惑術にしてしまったとルソー(Jean-Jacques Rousseau:哲学者)は言っている。近代以降、教育とは『教えに上手に従わせること』となった。そして『良い教師』とは『教え』の意図を隠し、子どもが自分で学んでいると思わせて実は上手に教えの意図に従わせる人であり、『良い生徒』とは、『教えの意図』をあたかも知らないかのようにふるまいつつ、上手に教えの意図を先取りして、自分の意思で『学んでいる』ふりをし、教えに従う人という関係が構築されてしまった。」

勉強と学びとまなびほぐし

「私が考える勉強と学びの定義とは『勉強』=教えに従って『身につけるべきこと』を身につけること。『学び』=自分から『こうありたい』自分になること。」と佐伯先生は語ります。
「勉強とは、分からせたいことや学ぶべきことを想定して、上手に学ばせて先取りする姿が良いとされる。それに対して、自分で本当だと思うことを自分で楽しみながら探求していく。これが学び。現在の学校教育でクラスに学びがあるのはまれです。いい授業をしている先生は『勉強』を頑張っている。そこで勉強を脱し学びを取り戻す。それが『まなびほぐし』だ。学びほぐしとはアンラーン。苅宿先生が編集されている本(※1)にありますね。」

さらに佐伯先生の新しい話が飛び出します。「ここでもっともっともっと基礎的なこと。アンラーンを理論化したい。アンラーンの理論化の新バージョンを話したい。知るってどういうことか?というところからアンラーンというものの原点を掘り起こそうと思う。本邦初演です」
※1「ワークショップと学び[全3巻]」 東京大学出版会 (苅宿・高木・佐伯) 「知る」ってどういうことかをもう一回ちゃんと考えよう。

「知」の原型は「知覚」である。佐伯先生も渡米するまでは「知覚」とは網膜に映像が映し出されることで、「認識」とはその映像を解釈することだと思っていたそうですが、「知覚」とは物事の意味が明らかになることだと分かったといいます。アメリカで教わったのは、「パーセプション=知覚」が外界の刺激ではないということ。物事の意味が明らかになること、分かることが「知覚」であると定義しました。佐伯先生はここで、2つの「知」の源泉について解説します。

  • 『統合による分析』
    全体がおよそ「どんな風なことか」の「網掛け」のもとに、個々の「部分」の意味が自然に決まる。
  • 『分析による統合』
    個々の「部分」の意味を集めて(統合して)全体の意味が統合規則にしたがって確定される。

「『統合規則』と『自然に決まる』の意味の違いは分かりますか?『統合規則に従って』というと、統合規則はどこから来るの?となる。これは『教えられる』から来るのです。分析による統合の知は教えられないと得られない。教えられるということを使わないと得られないのです。これに対して、『統合による分析』は、自分でどんな話なんだと模索することによって「だったらこういうことなのね」と分かる「知」なのです」

勉強と学びの違いを「知」の違いとしてみる

『教示』に従って獲得する『知』、すなわち分析による『知』は、言われたことから分かることで組み立てるものであり、自分で探索し確認する『知』、すなわち統合による『知』は、「なんだろう、こうかな」からやっぱりそうなんだと納得するものです。
「勉強と学びの違いを、『知』とは何かから説明ができる。勉強と教えで与えている「知」とは獲得できる何かであり、分析的「知」。その代わり統合的「知」はどんどん減退していくという状況に気づかなくてはいけない。これが一番言いたかった学びほぐし論最新バージョンです。」佐伯先生の話にも熱が入ります。

「分析的知は『教え』を前提としている。近代文明が培い、蓄積し、伝承してきている知のほとんどが分析的知である。近代は教育とは『教え』なんだということを大切にしてきたので近代文明ができてきた。しかし知の生産者やイノベーターは、すべて統合的知の実践者である。ノーベル賞級の人は「自分の好きなことして」探求してきているが、そこで探求されているのは統合的知であり、このことから、学びほぐしは知の生産者、イノベーターを生み出すことがわかる。ここで、それを生み出すモトから考えよう。」

Part1 終了
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