13-2. 漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

日本の技

インタビュー13-2 漆芸(蒔絵)室瀬和美氏インタビュー 13 後編
漆芸(蒔絵)室瀬和美氏

漆器は暮らしの中で使われてこそ完成する漆器は暮らしの中で使われてこそ完成する

国宝や重要文化財の修理も依頼される室瀬さんは、何百年も前の仕事から学ぶことは多いと言う。その一方で、漆器が現代の生活の中でもっと使われるように、啓蒙活動も熱心に行っている。

聞き手上野由美子

漆芸(蒔絵)室瀬和美氏
室瀬和美氏
1950年
東京に生まれる
1975年
第22回日本伝統工芸展にて「冬華文蒔絵飾箱」が初入選
1976年
東京藝術大学大学院修了(修了制作大学買い上げ)
1985年
第32回日本伝統工芸展にて蒔絵飾箱「麦穂」が奨励賞
1991年
目白漆芸文化財研究所開設
1996年
三嶋大社蔵国宝「梅蒔絵手箱」模造制作(〜1998年)
2000年
金刀比羅宮本殿拝殿格天井「桜樹木地蒔絵」制作(〜2004年)
第47回日本伝統工芸展にて蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」が東京都知事賞
2002年
第49回日本伝統工芸展にて蒔絵螺鈿八稜箱「彩華」が奨励賞
2008年
重要無形文化財保持者(人間国宝)認定
紫綬褒章受章
2013年
「工芸からKÔGEIへ」展出品(東京国立近代美術館工芸館)
2014年
「人間国宝の現在(いま)」展出品(東京国立博物館平成館)

海外にKÔGEIを発信する

――文化財の修理や模造から学ぶ点はありますか。

 修理時に表具を剥がすと書き付けが出てきたり、金具を外して見ると、下の塗膜が見えて、当時はこんな色だったのが500年経過するとこうなるんだとわかったり、勉強になります。だから私の作品も、20年後はもっといい色になると予測できるので、あえて最初は沈み気味に仕上げます。私の死後、100年、200年経過した時に見た人は、また違うものが見えると思います。修理や模造制作を通して実感しました。

 2013年に伊勢神宮の式年遷宮がありました。遷宮は、伝統技術を次世代に伝える意味でも重要だと言われますが、建物だけでなく納める御神宝などもつくり直すんです。儀式の後は各社(やしろ)に納められて、神職さんでも見られません。工芸には、使えるけど使わないものに最高の技術を用いる場合もあるということです。

――海外へのKÔGEIの普及にも力を入れてますね。

 日本の工芸の特長は、日常使うものから美術品として鑑賞するもの、さらには神様に奉納する特別なものまで全てが含まれることです。西洋では美を鑑賞する『アート』と普段使う『クラフト』を分けて考えます。明治時代の役人がクラフトを工芸と、ラッカーを漆と結びつけたことから、150年以上誤解され続けています。私はこの誤解を解くために、工芸はKÔGEI、漆はURUSHIと、そのままの言葉での発信を進めています。

――日本人自身の理解も大切ですよね。

 それが一番大事です。元々日本では、国宝に指定された絵画も、屏風や襖など、生活の中で使うもので、工芸と同じ価値観です。工芸は作って完成ではなく、使う人に渡って、その人が使い込んで初めて完成に至ります。作り手と使い手がコミュニケーションしながらモノを作っていく文化なのです。日本人は生活空間の中にアートを取り込んで来ました。この独自の文化を私たちは理解し、伝えていく必要があります。

漆器は保温力もあり酸にも強い

――生活に取り入れやすい漆器の役割は大きいですね。

 皆さんが毎日食べるご飯。ご飯をなぜ陶磁器の茶碗で食べるのでしょうか。茶碗は熱い茶をいいタイミングで提供するために、早く冷める陶器や磁器が都合が良かったのですが、ご飯はゆっくり楽しんで食べたい。そうすると保温力のある漆器が最適なんです。

 この話が80歳で3度目のエベレスト登頂にチャレンジする、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんに伝わりました。6000m以上の極寒の地では、プラスチックや金属の器だと、温かい食べ物もすぐに冷めてしまうそうです。そこで私に「エベレストに持っていく漆器を作ってほしいと」言われて作りました。実際に登頂時に使ってくれて、本当に冷めないので体が温まり助かったそうです。また、雪を溶かして石が混じった水で漆器を洗わざるをえないのだけど、表面は傷になっても、割れたり剥がれたりはない。漆は強いんです。

――漆は洗い方とか扱いが難しいと言われますが。

 それも誤解です。洗剤にも強い。酢の物も大丈夫。濃塩酸と濃硝酸を混ぜた金属も溶かす王水でも溶けない。洗った後も置いておけばすぐ水が切れます。毎日使うなら全然大丈夫。年に1回だけ使うようなものは、何か着いたまましまうとカビるから、すぐ拭き上げることは当然です。「扱いに気をつけて」と書いてあるのは、見えない工程の手を抜いてしっかり作ってない証拠です。

三浦雄一郎のエベレスト登頂隊が、ベースキャンプの食事で実際に漆塗りの椀を使っている風景。通常より重心を低くする工夫がされている。

漆を塗り重ねる手順の見本。下地の工程だけで10数段階、塗っては研いでを繰り返す。完成したら途中は見えない。

子供に漆器の良さを体験してもらう

――しかし、売り場では良い物はいいお値段ですね。

 値段が高くても丈夫に作ってあれば何10年でも使えるので、結果的には高くありません。問題なのは、漆に対する知識を正確に理解している売り場の人が少ないことです。これからは、小さな工房の良い作り手に出会える場をもっと作っていきたいです。

 このシリーズにも登場した陶芸の前田さんや竹工芸の藤沼さんたちと、10歳以下の子供に体験してもらう場を提供しています。子供の時から質感を体で感じれば、目をつぶってもさわれば漆はわかる。大人になってからではプラスチックと違いがわからない。漆器の良さを小さい頃から体で覚えて貰う機会は重要だと思います。

――作り手としては何を次代に伝えたいですか。

 技術や形を伝えるのは伝承。見えない価値観を伝えるのが伝統です。作るものは時代とともに変わって、その時代の人の美感を後世に伝えることが大事。そうしないと平成の感性を数百年後の人に伝えられないでしょ。

 でもいつの時代も、面倒を嫌がると文化はなくなるんです。「手間があるから文化なんだよ」と、子供たちにも言っています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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13. 漆芸(蒔絵) 室瀬和美氏

日本の技

インタビュー13 漆芸(蒔絵)室瀬和美氏インタビュー 13 前編
漆芸(蒔絵)室瀬和美氏

日本人の美学が凝縮されている蒔絵日本人の美学が凝縮されている蒔絵

日本を代表する工芸品として海外でも高く評価されている蒔絵。その第一人者で人間国宝に認定されている室瀬和美さんの工房を訪ね、伝承技術を独自の感性で表現している研出蒔絵の魅力や国内外への取り組みなど2回に分けて紹介する。

聞き手上野由美子

漆芸(蒔絵)室瀬和美氏
室瀬和美氏
1950年
東京に生まれる
1975年
第22回日本伝統工芸展にて「冬華文蒔絵飾箱」が初入選
1976年
東京藝術大学大学院修了(修了制作大学買い上げ)
1985年
第32回日本伝統工芸展にて蒔絵飾箱「麦穂」が奨励賞
1991年
目白漆芸文化財研究所開設
1996年
三嶋大社蔵国宝「梅蒔絵手箱」模造制作(〜1998年)
2000年
金刀比羅宮本殿拝殿格天井「桜樹木地蒔絵」制作(〜2004年)
第47回日本伝統工芸展にて蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」が東京都知事賞
2002年
第49回日本伝統工芸展にて蒔絵螺鈿八稜箱「彩華」が奨励賞
2008年
重要無形文化財保持者(人間国宝)認定
紫綬褒章受章
2013年
「工芸からKÔGEIへ」展出品(東京国立近代美術館工芸館)
2014年
「人間国宝の現在(いま)」展出品(東京国立博物館平成館)

ゆっくり作って、ゆっくり次世代につなげていく

――蒔絵の一番の魅力は何でしょうか。

 最も古い蒔絵の一つに、弘法大師が、唐から持ち帰った経典を入れるために作らせた箱があります。そこには、大事なものを自分のためにではなく、1,000年後の人にも大切なものだと伝えたい思いがあり、それが蒔絵の箱になったのです。

 さらに、漆は自然の素材を生かし、自然を壊さずに何度でも再生できる素材です。しかしそれは、人間1人の生涯でできる短いサイクルではなく、木地用の樹木を育てるだけで3代も4代もかかる長い循環です。500年前に作られた漆器でも、保存が良ければ、ついこのあいだ塗ったようなきれいな肌合いをしています。木地作りや下地工程があり、一度塗った漆が固まるまで数日、作品が完成するまで数か月から数年かかります。ゆっくり作って、ゆっくり使って、ゆっくりと次世代につなげていく。そこに日本人の美学が凝縮されていると感じます。父親が蒔絵を作る姿を通して、その価値観に共感したのです。息子たちも共鳴していると思います。

――日本独自の技術が生まれたのはいつごろですか。

 漆自体は縄文時代まで遡ります。火焔土器は有名ですが、漆も同じくらい歴史があるんです。土器の表面に漆を塗ることで水を漏れなくするという、器文化の発達に大きく寄与しています。もっと遡れば、矢尻を木の柄に固定するために、つるで縛った上から接着剤として漆を塗っていたこともわかっています。木は腐ってしまいますが漆の皮膜は土中では腐らずに残るんです。

 蒔絵などの装飾が発達したのは平安時代からと言われています。その後、時代とともに進化し、安土桃山時代にはキリスト教を日本に伝えた宣教師が、蒔絵を注文してヨーロッパに持ち帰りました。西洋には黒塗りに金の模様を施したものなどなかったので、ヨーロッパの王侯貴族たちを魅了したそうです。教会で使う書見台などが当時、大量に輸出されました。実はピアノは元々木目調だったのに、日本の漆の影響で黒になったそうです。

研出蒔絵はミクロンの単位で計算した立体画

――室瀬さんの研出蒔絵とはどんな技術なんですか。

 漆面に漆で絵柄を描いた上から金粉や銀粉を蒔き、いったん全体を漆で塗り込めます。硬化させた後に木炭で研いで、表面を滑らかにしつつ金銀の絵柄を露出させるのです。漆と蒔絵の面が同一面になるため、よほど強く傷つけたりしない限り金銀は剥がれません。

 さらに、日本の漆は透明度が高いので、漆に沈んだままの金が透けて見える美しさもあるんです。その特性を生かして、蒔いて塗り込んで研いでを繰り返すと、重ねた漆の厚さの違いから繊細なぼかしや奥行き感を表現できます。研出蒔絵というのは平面のようで、実はミクロンの単位で計算した立体画なんですよ。伝承した技術を今の私の感性で表現するものです。

――金粉を思い通りに蒔くのが難しそうですね。

 金粉は粉筒に入れて蒔きます。人差し指と親指で筒をつまんで、もう1本の指でトントントンと一定に弾いて蒔いていきます。粉筒は葦の茎を斜めに切って、切り口に絹を張ったものです。絹は静電気で粉がくっつくのを防ぐために張っています。今はもう取れないので貴重ですが、鶴の羽根の根元を粉筒にした鳥軸も使います。

 金粉は金の固まりをヤスリで削って作ります。球体のもの、それを平たくつぶしてキラキラするもの、金の純度による色の違いや、粗さの違いも20段階くらいある。粗さによって粉筒を使い分けます。

――材料や道具を作る人が減っていませんか。

 一番困ってるのは研ぎ出しの炭ですね。今は福井の方1人だけです。漆を掻く道具を作る職人さんも青森に1人しかいません。漆自体も国産はわずか2%で、あとは中国等から輸入です。成分分析では同じなんですが使うと違いが出るんですよ。日本の漆は硬くて、透明度が高くて、艶が出る。日本では採り方や採取時期なども、使い方に合わせてこだわってくれているからでしょうね。そうした点も日本の工芸ならではと感じます。

(次号に続く)

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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12. 染織(江戸小紋)小宮康正氏

日本の技

インタビュー12 染織(江戸小紋)小宮康正氏インタビュー 12
染織(江戸小紋)小宮康正氏

色落ちしにくい着物として生き残った江戸小紋色落ちしにくい着物として生き残った江戸小紋

小宮染色工場の三代目小宮康正さんは、伝統技術を継承しつつ、常に改良の精神をもって江戸小紋のクオリティを高めてきた。「良いなあ」と思われるものづくりの姿勢は、いま二人の息子にも継承されている。

聞き手上野由美子

染織(江戸小紋)小宮康正氏
小宮康正氏
1956年
東京葛飾区にて重要無形文化財保持者・小宮康孝の長男として生まれる
1972年
父のもとで修業を始める
1980年
第27回日本伝統工芸展初入選
1983年
第30回日本伝統工芸展にて文部大臣賞 受賞
1988年
突彫小紋 着尺両面染「立霞入り連子」文化庁買い上げ
1989年
東京国立近代美術館「ゆかたよみがえる」展出品
1990年
日本伝統工芸展10周年記念特別ポーラ奨励賞 受賞
1994年
第7回MOA岡田茂吉賞 優秀賞 受賞
2006年
第53回日本伝統工芸展にて高松宮記念賞 受賞
2007年
第54回日本伝統工芸展鑑審査委員
2010年
紫綬褒章受章

古い型紙は使わない

――高度な伝統技術を一家で継承されておられますが、いつごろから後を継ごうと思われましたか。

 いつというか、ほとんど洗脳ですね。祖父は「孫は俺が仕込む」と言っていたそうですが、歌舞伎などと同じで、良さがわかってから入っても手遅れな世界なんですよ。だから子供に見て覚えさせるんです。今なら職人技もだんだん解明されてきたので、大学くらいから理論的に教え始めても、技術の継承は可能でしょう。

 それより、いくら伝統技術と言っても用途がなくなったら滅びちゃうんですよ。祖父は、どんなに良くても古い型紙は買わなかったそうです。「その金で新しい型を買え」と言って、型紙職人の仕事や技術が後世に残ることを重視したんです。そうやって祖父が残した大量の型紙を、父はほとんど使っていません。祖父の精神を受け継いだからこそ、さらに型紙の品質を高めたからです。業界全体のレベルを上げながら残すことが小宮を守ることになるという、うちの家訓みたいなものです。

――小宮さんもかなり糊の研究をされたそうですね。

 紋様の繊細さやキレの良さを染め上がりに反映させるには、防染糊が型通りに生地に置かれ、しかも取れない粘り気が必要です。それによって滲みやムラのないシャープな染際が出るのです。糊は糠(ぬか)と糯(もち)米の粉をペースト状にしたものに、防染のための活性炭や染まらない顔料などを混ぜて作ります。でんぷん質によって水切れや粘り気を調節し、紋様に適した糊にします。材料の質、染める生地、その日の気候などによっても変えます。

 糠の製粉業者が廃業するピンチもありました。でも自社でやってみると、原料を吟味したり、練る機械を変えたり、絵柄によって配合を変えてみたりと、手間はかかりましたが品質はむしろ良くなったんですね。この世界は分業によって支えられています。型紙を作るための和紙、型彫りに使う刃物、染める前の生地、染料など、関連する素材や道具がたくさんあります。そのどれがなくなっても大変ですが、それを機により良くする工夫が生まれることもあるわけです。

定番の鮫小紋でも、型紙職人によって仕上がりに差が出る。

良いものを生み出す改良の精神

――この板場にも様々な工夫があるそうですね。

 はい。建物の窓は南側だけです。長板を乗せる馬は、南側が低く奥に行くほど高くなっています。この傾斜により、南からだけの光を長板の面に当てます。型紙で糊を置いていく型付けという作業を繰り返す際に、正確に絵柄を合わせるためです。床は土間にして湿度を高く保つことで、型紙や防染糊の乾燥を防いでいます。

――今日はなぜ窓を閉めているのですか。

 実はこれも改良の一つで、繊細な仕事をするときは、窓を閉めて電球1灯の光で型付けをしています。湿度を一定に保ち糊のムラを出さないためです。蛍光灯ではムラが見えないため、白熱電球の製造中止でまたピンチでしたがLED電球は使えたんです。型付けの後に染料の入った糊でしごき、蒸し箱に入れて90℃で1時間程蒸します。蒸しにも躊躇しながらボイラーを導入しましたが、微調整できる利点があり活用しています。

 先代から引き継いだ技術をそのまま続けることではなく、今使われて「良いなあ」と思われるものを作り続ける姿勢こそが、伝統の継承だと思うんです。そもそも江戸小紋は、明治43年に、蒸して絹の非結晶領域に染料を閉じ込めるという大きな変革をしたから、色落ちしにくい着物として生き残ったんです。

息子の康義氏が型付けの一部を実演してくれた。繊細な作業を素早く行う。

伝統は受け継ぐことより伝えることの方が難しい

――親から子へ着物を着つなぐのにも適してますね。

 実はそれをかなり意識して、うちの小紋は生地のままの色ではなく、薄っすらグレーにする着色防染をしています。なぜかと言うと、絹は長年タンスで寝かせると生地が少し黄変するのですが、グレーが入っているとそれが目立たず、常に新鮮に見えます。技術的には型付け糊の調合で工夫しています。着物は究極のエコですし、ぜひ親から子へつないでいってほしいです。

――伝統技術の継承とも似ていますね。

 そうです。私は、祖父、父から受け継いだ良い技を守りながら、未来を作っていく思いでやってきました。伝統は受け継ぐよりも、伝えることの方が難しいです。伝統技術とは言いますが、息子たちには、気持ちはいつも最先端のつもりで取り組んでもらいたいです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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11. ガラス工芸 イワタ ルリ氏

日本の技

インタビュー11 ガラス工芸 イワタ ルリ氏インタビュー 11
ガラス工芸 イワタ ルリ氏

鋳込みの技術をガラスに活かす鋳込みの技術をガラスに活かす

幼いころから身近でガラスに親しんできたイワタルリさん。祖父の代から続く日本のガラス工芸の技術を単に継承するだけでなく、鋳造の技法を取り入れた新たな試みで存在感のある作品づくりを展開している。

聞き手上野由美子

ガラス工芸 イワタ ルリ氏
イワタ ルリ氏
1977年
東京藝術大学大学院修了
1979年
第1回個展開催(以降毎年開催)
1989年
第14回吉田五十八賞受賞「建築関連美術部門」
1990年
’90現代ガラス造形展・優秀賞受賞(彫刻の森美術館)
1992年~
ドイツ、チェコスロバキア、フランス、イギリス、スウェーデン各国現代美術展に立体作品を招待出品
1998年
サントリー美術館大賞展’98 大賞受賞
2001年
資生堂・椿会展出品(〜2005年)
〈収蔵〉 米国コーニング社/全興寺 涅槃仏/資生堂掛川アートハウス/東京ミッドタウン メインタワー/石川県能登島ガラス美術館 他国内外に多数

鋳物の技術と出会って新たなガラスの道が開けた

――自然にガラスの世界に入られたのですか。

 そうです。継げと言われたことはないですが、名前がルリ(=ガラス)でしょ。母がよく工場に連れてってくれて、みんな遊んでるように見えてました。宙吹き(るつぼで溶けたガラスを吹き棹の先端に巻き取り、一方の端から息を吹き込んで、膨らませながら形を整えていく基本技術)をする職人の動きをずっと見ていたので、目に焼き付いていました。実技としてガラス工芸を始めたのは東京芸大の1年目で、見よう見まねで作業を覚えていくのですが、宙吹きが目に焼き付いていた経験は、技術の上達には大いに役立ちました。

――お祖母様のお父様が東京美術学校を立ち上げた彫刻家の竹内久一で、藤七さん、久利さん、ルリさんと4代続く東京芸大ご一家ですね。

 はい、血統書付きだなと冷やかされることがありますが、私が入学した頃はガラスに関連した学科はなく、私は鋳金科に行きました。現場が工房というより工場で、実家の工場の記憶とオーバーラップして親近感を抱きました。おかげで、鋳物の技術である鋳込みと出会って、新たなガラスの道が開けた感じですね。

職人とのグループ作業

――作風へのお祖父様やご両親の影響はありますか。

 いや、その点はむしろ反発しましたね。父からは「まずは真似て勉強したらどうか」とよく言われましたが、「同じものは作りたくない」と拒否し続けました。そうしたこともあり、鋳込みの技術を初めてガラスに活かそうとしたのだと思います。

――大きな作品もありますがどのように作るのですか。

 大きいものや重いものもあるため、作品づくりは4、5人の職人とグループで取り組んでいます。デザインをするのは私ですが、職人と相談しながら、それぞれの得意技や各自の体調などを考慮して、うまく進むように努力しています。まだ技術が十分でない職人の教育も私の仕事です。皆の息が合って思い通りのものができたときは、サーッと天上から光が射す感じがします。

 制作を始めるときに、まず床に完成イメージの絵を描くんですが、完成作品はだいたい描いた絵と同じものになりますね。
 鋳込みの場合は鋳型に溶かしたガラスを流し込み、固まって取り出したものをくっつけていきます。鋳型は石膏、砂、蝋などで作ります。サントリー美術館大賞作品は、型の石膏やメッシュの跡を残し、ガラスの質感を際立たせました。宙吹きもけっこう重くて、もう1人が支えて2人がかりで作業することもあります。しかも熱いので夏場は大変です。捻ったガラスで造形された作品は、モールと呼ばれる型に入れて、まだガラスが熱いう ちに取り出してくっつけていきます。

存在感を大切にしています

――モチーフはどうやって決めるのですか。

 意外に思われるかもしれませんが、ひらめきとかでは作りません。1つ作ったら、次はここを変えてみようという感じで繋がっているんですね。たぶん一生継続するんだと思います。ただ、誰もやってない変化をするために、どうやって作ろうかと新しい技術を考えたり、試したりはよくやっています。そして、立体作品でも工芸作品でも、存在感を大切にしています。子供の頃から液状に溶けたガラスが好きで、そこから作り手の個性が表れ る作品にでき上がっていくのが面白いです。

――特徴である鮮やかな色はどうやって出すのですか。

 色は難しくて、それぞれの工場ごとに作り方が違う企業秘密なんですね。特に赤は難しく、気に入った赤が出せた時にはストックしておいて、次の作品に生かすようにしています。昔は透明ガラスの周りに色のるつぼが並んでいましたが、近年は質の良い色ガラスが販売されていて、購入して使うこともあります。

――今年も個展を開催されるんですよね。

 はい。これから作品作りの追い込みです。東京・六本木のサボア・ヴィーブルで工芸作品の新作を、富山市ガラス美術館では私の彫刻作品を中心に、岩田三世代展として開催します。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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10. 鍛金 大角幸枝氏

日本の技

インタビュー10 鍛金 大角幸枝氏インタビュー 10
鍛金 大角幸枝氏

伝統技術は、生活の中で使われてこそ意味がある伝統技術は、生活の中で使われてこそ意味がある

「鍛金」で女性初の人間国宝に認定された大角幸枝さん。道具にこだわり、鍛金、彫金、布目象嵌という3つの技術を組み合わせて自分の形を表現、金工に対する評価の高い海外で日本の伝統工芸を広めている。

聞き手上野由美子

鍛金 大角幸枝氏
大角幸枝氏
1969年
東京藝術大学卒業
鹿島一谷、関谷四郎、桂盛行に師事
1986年
第33回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞
1987年
第34回日本伝統工芸展 日本工芸会総裁賞
1991年
第1回香取正彦賞
第4回MOA岡田茂吉賞展 優秀賞
1998年
第28回伝統工芸日本金工展 日本工芸会賞
2009年
第56回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞
2010年
紫綬褒章受章
第17回岡田茂吉賞展 MOA美術館賞
2014年
第61回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞
第1回米国立スミソニアン協会客員作家に選定される
2015年
重要無形文化財保持者(人間国宝)認定

使えるものがいいから、と工芸の道へ

――鍛金では女性初の人間国宝に認定されましたが。

 職人の世界は特に男社会だったからしかたありませんが、そろそろ女性初とか珍しがられない世の中になって欲しいですね。作ったのが女だとか男だとか関係なく、作品を見ていただければと思います。
 実は、鍛金で認定されたのは意外でした。元々私は彫金をやっていて、ボディは鍛金専門の人に作ってもらっていました。途中からボディも自分で作りたいと始めたのですが、両方を自分でやる人は少ないんですよ。

――金工に惹かれたきっかけは何ですか。

 東京藝術大学に入ってからです。何か美術に関係する仕事はしたかったのだけど、やるなら西洋じゃなくて東洋文化だな、使えるものがいいから工芸かな。で、いろいろ体験してみて、陶芸は土が掴みどころなく感じたり、漆はかぶれたので外したり、消去法と人がやっているのを見て面白そうに感じたのがきっかけでした。芸術学科の卒業生は研究家や学芸員になる人が多く、私のように作家になるのは珍しいんです。

――たくさん道具を使うのですね

 そう見えますか。師匠から「道具は少ないほうが良い」と教えられていて、私は少ない方だと思っているのですが。でも工芸に道具は欠かせません。たまたま昨日テレビの取材があって、このヤスリを作っている職人さんが主人公で、私はその道具を使っている作家という立場でした。私が作りたい作品に合わせた微妙なカーブのヤスリを作ってくれる、東京に1人しかいないトキみたいな職人さんです。良い道具がなくなると、私も思い通りの作品ができないかもしれないわけです。

風や波から自分の形を見出す

――作品の制作工程を教えてください。

 「渡海」の場合だと、まずは船をイメージしてスケッチします。素材の銀板は厚さ1.2mm、金鎚で叩いて伸ばして形を作っていきます。焼鈍して柔らかにするために度々熱をかけます。形を作る際に重要なのが、金鎚のほかにも、出したい曲線に合う当金(あてがね)やヤスリなどの道具なんです。形によりますが、ここまでで数か月かかります。船の形ができるとスミで下絵を描きます。角度を変えながら3重に鏨(たがね)で布目切りをした後に、鉛箔や金箔を柳鏨で叩いて象嵌してから不要部分を切り剥がします。さらに金槌で箔を叩き込みます。最後に炭で研ぎ、鉛の色を変化させて濃淡を付けていきます。鍛金、彫金、布目象嵌という3つの技術をそれぞれの先生から学び、組み合わせて自分の表現にしてきました。

――風や波など明確な形のないモチーフが多いですね。

 そうですね。例えば誰が見てもわかる花の美しさをそのまま写すよりも、形をとどめない風や波から自分の形を見出す方が面白いんです。色合いも、以前は様々な金属の色を活かした作品を作っていたのですが、飾りをそぎ落とし最後に残った、モノトーンと金による深味と品格ある表現に今は愛着を感じます。

――伝統文化の継承についてはどうお考えですか。

 伝統技術と言っても、昔からあるだけでなく、現在に生きていないと意味がありません。鑑賞も使うことの一つではありますが、生活の中で使ってもらえるよう、講演やワークショップなども嫌がらずにやっていこうと思います。ただ、自分の作品を作る時間も大切なので、弟子は今は1人だけです。進歩しないと教えがいがないので、確実に育つと思える人だけですね。

外に出て、自分の世界を確立してほしい

――海外でも活動されていますね。

 若い頃からインド、シルクロード、中東、エジプト、ブルガリアなどに行って文化や金工芸に触れていました。40代だった1988年に、文化庁の藝術家在外研修員としてロンドンに派遣された際、西洋から東洋文化を見ることで、バチッと目が覚めた経験をしました。
 日本は陶芸王国と言われて、陶芸以外、特に金工はあまり知られていません。海外では生活の中で金属が担ってきた文化が違い、金属製のものを持てない人が陶磁器で代用したという歴史があり、金工に対する評価が高く、知識も皆さん豊富なんです。なので海外の方が反応がよく、展示しがいがありますね。
 昨年、スミソニアン博物館で講演とワークショップ、展覧会を行ないました。アメリカは歴史が浅い国なので、日本の伝統工芸には興味を持ってもらえます。若い人も活発で、少しでも多く吸収しようとしています。日本人も積極的に外に出て、たくさん見て、自らの世界づくりに役立ててほしいですね。自分の世界が確立できれば、自分の表現ができるからです。生涯学習という意味では、学ぶ人にとっても、社会にとっても、世界が広がることで意義があるのではないでしょうか。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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9. 截金 江里 朋子氏

日本の技

インタビュー9 截金 江里朋子氏インタビュー 9
截金 江里朋子氏

専門職の人が作ったものに加飾するので、より良い作品に仕上げていく責任がある専門職の人が作ったものに加飾するので、より良い作品に仕上げていく責任がある

仏教伝来と共に大陸から日本に伝わった截金(きりかね)。その技術を伝承してきた数少ない截金師の一人である母親の技術を受け継ぎ、工芸における独自の創作活動を展開している江里朋子さん。次代に向けた新たな伝道師として、作品作りに挑戦している。

聞き手上野由美子

截金 江里朋子氏
江里朋子氏
1972年
仏師・江里康慧と截金師・江里佐代子(重要無形文化財保持者)の長女として京都に生まれる
1991年
京都芸術短期大学(現:京都造形大学)日本画専攻卒業後、本格的に母親から截金を習い始める
2001年
夫の郷里の福岡市へ移る
2009年
截金欄間 「季 皓々」作成(石巻市 森邸)
2010年
截金四季模様欄間作成(京都市 わざ永々棟)
2011年
截金鳳凰文様欄間作成(福岡市 料亭嵯峨野)
第58回日本伝統工芸展で日本工芸会新人賞受賞
2012年
第59回日本伝統工芸展で入選
2013年
第48回西部伝統工芸展で九州朝日放送賞受賞
2015年
日本橋三越本店で個展

一生をかけて截金の魅力や技術を広く世の中に伝えていきたい

――截金はお母様から習われたんですよね。偶然なんですが、私の母が江里さんのご両親の作品のファンで、以前に京都の工房を訪ねたことがあるんです。

 そうでしたか、ありがとうございます。子供のころ、両親を近くから見ていて、私にはこんな繊細な作品は絶対に作れないと思っていました。それでも興味はあったので母の手伝いから始め、最初の截金は、父の彫った仏像の台座に施した文様でした。集中力が必要で時間がかかる作業ですが、その分できた時の達成感や上達の喜びは大きくて、大学卒業後に正式に母から学び始めました。

――お母様は厳しかったですか。

 どちらかというと姿勢で示して、あとは自分で考えなさいという人でした。まだまだ勉強中で、2007年に母が亡くなってからは後継のプレッシャーも感じますが、教えられたものに自分なりの工夫や独創性を加えて、母がやってきたように、一生をかけて截金の魅力や技術を広く世の中に伝えていければと思っています。

――前回ご登場いただいた竹工芸の藤沼昇さんが、「截金師は皆さん穏やか。そうじゃなきゃできない仕事」とおっしゃっていましたが、どんな工程なのですか。

 主な材料は金箔やプラチナ箔です。箔は1万分の1ミリの薄さで、これを炭火で炙って1枚ずつ焼き合わせて、5、6枚重ねたものを使用します。重ね合わせることで柔軟性が生まれるんですね。
 次に、鹿皮を張った盤の上で竹製の刃で細く切ります。竹刀を使うのは静電気が起きにくいからですが、繊細な道具なので自分で篠竹を削って作ります。切った箔は最小で0.1ミリ幅。ほぼ糸状の箔を、膠(にかわ)と布海苔を混ぜた接着剤を含ませて筆で描きながら箔を導くように同時に貼っていく、本当に緊張する我慢のいる作業です。

時間を置くことで答えが見つかることもあるんです

――一つの作品にどのくらい時間をかけるのでしょう。

 実は何点か違う作品を平行して創っています。細かい作業なので、一つに集中し過ぎると客観的に見られなくなって、行き詰まったり迷ったりしがちです。また、仏像にしろ工芸作品にしろ、専門職の人が作ったものに加飾してより良くする責任があります。例えばこの漆器のホタルを1匹足すだけで、線を1本足すだけで全く雰囲気が変わることがあるため、どこまでやるか、どこで止めるかのせめぎあいもあります。時間を置くことで答えが見つかることもあるんですね。ですから、1週間でできるものもあれば、半年、1年とかかるものもあります。

――仏像と工芸作品との違いはありますか。

 仏像の加飾は決まりごとが多く、それに沿った文様や割付けをしなくてはいけないんです。ですので、父から注意を受けながら慎重にやっています。一方、小箱など工芸作品は、自分の思いや感動を表現しています。夕日、海、雪といった自然の美しさはもちろん、ときには子どもとの遊びの中からヒントを得ることもあります。工芸の創作は自由で楽しいですね。とはいえ基本は仏像です。仏様に施す技術であることを心に留めてやっていきたいですし、次世代にもその点は伝えたいです。

(上から)
截金香合「扇重ね」(2015年)
截金香合「宝珠」(2000年)
截金透塗「蛍平棗」(2000年)
年月を重ねると漆が透け、金がより鮮やかになる。

将来的には西洋建築とのコラボにも興味があります

――サンドウィッチガラスにも取り組まれているとか。

 そうなんです。世界最古の截金作品と言われる、大英博物館収蔵のアレキサンダー大王ゆかりのゴールドサンドイッチガラスの復元を試みています。古代にどうやって作られたのか、今でも解明されていない謎らしいですね。そんなロマンもあって挑戦しています。

――かつて仏教と共に大陸からやってきた截金が、日本発の新たな美となって、近い将来、再び大陸を魅了する時が来るかもしれませんね。

 截金の技術が伝承されているのは現在では日本だけですから、その伝道師となれればと思っています。現在、日本茶から抽出した特別な香水の箱に截金を施すコラボが進んでいて、海外向けに展開するそうです。また、母の最後の仕事が京都迎賓館の内装に截金を用いたものだったこともあり、将来的に西洋の建築とコラボする可能性にも興味があります。いまは生涯学習に対して開かれた時代ですから、国境や老若男女を超えて感動できる作品や技術を伝えていけるチャンスだと思っています。

朋子さんの夫・左座喜男さんが経営する茶道具店左座園2階の茶席「常楽苑」にて。ここを施工した建築工房・悠山想には当時、本誌で取材したこともある大工の池尾拓さんが在籍し、工事を通してご夫妻と顔見知りであることが判った。池尾さんはその後独立し、財団の助成先でもある全国大工志の会代表も務める。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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8-2. 竹工芸 藤沼 昇氏

日本の技

インタビュー8 竹工芸 藤沼 昇氏インタビュー 8 後編
竹工芸 藤沼 昇氏

高い志で次世代に文化を引き継ぎたい高い志で次世代に文化を引き継ぎたい

工芸家としての階段を一気に駆け上がった藤沼昇さん。苦しみの中で「気」と出会い、壁を乗り越え、いま、次世代に伝統文化を継承するため、好奇心を失わず作品作りに挑戦し続けている。

聞き手上野由美子

網代編盛籃「花筏」(2014年)
竹工芸 藤沼 昇氏
藤沼 昇氏
1945年
栃木県大田原市生まれ
1975年
竹工芸を始める
1986年
第33回日本伝統工芸展日本工芸会会長賞受賞
1992年
第39回日本伝統工芸展東京都知事賞受賞
1996年
東京国立近代美術館に〈束編花藍「気」〉が所蔵される
2004年
紫綬褒章受賞
2005年
ロサンゼルス日本文化会館にて個展
2008年
シカゴ美術館にてデモンストレーションを行う
2011年
シカゴ美術館にて個展
2012年
重要無形文化財(人間国宝)に認定
2014年
伊勢神宮に〈束編花藍「白連」〉献納
2015年
旭日小綬章受賞

竹とのしなやかな関係を構築

――「気」を意識するようになったきっかけは。

 独立して5、6年経過したころ、伝統工芸展に出品しても選外になることが続きました。悔しかったし、先輩作家たちの嫉妬ではないかと疑ったり、苦しい時期でした。そんな中で再度、日本文化を探求していくと、「気」に出会ったのです。気は見えないけどエナジーなんですね。気で人は動かされます。

――確かに作品からオーラを感じます。

 竹の編み方や形はどうだっていいんです。作品から何かを発していることが重要で、気を意識すると自然に見る人に伝わるんです。作る自分ができるだけ「気」を感じていられるような制作環境にしています。

――「気」という作品もありますが、この頃から竹との向き合い方にも変化が出ましたか。

 そうですね。竹の強さを力でねじ伏せようとするのではなく、その声を十分に聴こうとしました。そうすると会話が生まれ、竹とのしなやかな関係ができるようになりました。それからは、節があって従来の籠に使えない竹でもその節を生かしてデザインしたり、折れやすい竹だったら、その性質に合った作品作りをしていくなど、竹と寄り添う感じです。
 45歳のとき、人間国宝の飯塚小玕斎(しょうかんさい)が得意とした束編(たばねあみ)技法を参考に花籠を編んでいる時でした。自分の意志ではなく、何かに突き動かされるように手が勝手に動く感覚を体験しました。その時に生まれたのが、伝統技法にひねりの工夫を加えたオリジナルな編み方です。

時を経て海外で高い評価

――海外進出しようと思ったのはなぜですか。

 日本人として生きよう、日本文化の凄さを証明しようと思って始めたのですから、必然的に海外に向かったのでしょうね。私はアーティストですが、プロデュースもすれば、デザインもし、販売のことも考えます。作品が評価されればされるほど値段が上がってしまい、売りにくくなるというジレンマがありました。1,000万も2,000万もする作品はそうそうは売れませんから、小品を10個、20個作ったりしましたが、そういったことも限界があり、ならばと販売先を求めて海外に出ていったという理由もあります。

――で、実際に海外で認められて、シカゴ美術館や大英博物館にも作品が所蔵されるようになったのですね。

 そうですが、20年くらい前にこっちから話を持ちかけた際は、「いらない」と言われましたね。それから5年くらいの間に向こうの見方が変わったのか、エージェントが買いつけに来ました。竹の持つ伝わりやすさも影響しているかもしれません。その後、ロサンゼルスやシカゴでの個展やデモを経て、高い評価をいただくようになり感謝しています。

――アジアへも作品は広がっていますね。

昨年6月にシンガポールで開催された「わざの美―現代日本の工芸」に出品しました。日本の工芸の基本的な素晴らしさは伝わったと思いますが、工芸の真髄や価値を理解するには、もう少し時間がかかると感じました。

子供の笑顔が創作のパワー

――伝統技術の継承については、どうお考えですか。

 作る技術は継承できますが、創る技術は作家自身が開発するしかありません。それよりも、10歳以下の子供たちの感性に期待しています。大人は作家の技芸を評価しがちですが、子供は作家の心を読みとります。私の場合は子供の評価に心ときめきます。
 日本伝統工芸会東日本支部で2013年に、『伝統工芸ってなに?』という小中学生向けの入門書を発行しました。また、日本各地の小学生相手に出張授業をしていて、私は竹とんぼをいっしょに作るんです。


子供たちともいっしょに作る、
藤沼さん作のよく飛ぶ竹とんぼ。

――子供たちの反応はどうですか。

 よく飛ぶので大喜びです。その笑顔と感想から刺激を受け、日本のもの作りの奥深さをあらためて教えられています。それも創作のためのパワーになります。
 地元の大田原市でも、名誉市民の推挙を受け、その年金を財源に「藤沼昇 世界にはばたけ子ども未来夢基金」を設立することになりました。MOA美術館おおたわら児童作品展への出品と美術館見学をします。

――ご自身の今後の取り組みは。

 生き方や仕事に嘘をつくと自分にはバレますので、常に志を高い所におくように努めています。次世代の人たちが簡単に超えられない仕事を残していくつもりです。そのために好奇心を失わず、何でも挑戦したいです。超える壁が低いと、文化を引き継ぐ人たちだって飽きてしまいます。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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7. 漆芸 小森邦衞氏

日本の技

インタビューインタビュー7 漆芸 小森邦衞氏インタビュー 7
漆芸 小森邦衞氏

漆は器の骨格をよく理解して塗る漆は器の骨格をよく理解して塗る

輪島塗の新境地を開いたとして、2006年に人間国宝に認定された小森邦衞さん。日本を代表する美術工芸品である輪島塗は、その美しさや何重にも漆を塗り重ねた堅牢さが人を魅了する。

聞き手上野由美子

漆芸 小森邦衞氏
小森邦衞氏
1945年
石川県輪島市に生まれる(本名・邦博)
1977年
第24回日本伝統工芸展入選
1986年
第33回日本伝統工芸展出品作「曲輪造籃胎喰籠」でNHK会長賞受賞(第36回展でも同賞受賞)
2002年
第49回日本伝統工芸展出品作「曲輪造籃胎盤『黎明』」が日本工芸会保持者賞を受賞、文化庁が同作品を購入
2004年
第14回MOA岡田茂吉賞工芸部門大賞を受賞
2006年
重要無形文化財髹漆保持者認定(人間国宝)
2015年
旭日小綬章受賞
公益社団法人日本工芸会常任理事・漆芸部会長

品格のあるものに仕上げることが大事

――人間国宝として認定される理由にもなった「髹漆(きゅうしつ)」とは、また数々の受賞作に冠される「曲輪造籃胎(まげわづくりらんたい)」とはどういった技術ですか。

 髹漆とは素地に麻布を貼り、篦(へら)で下地を6、7回付け、砥石、木炭で研ぎ、精製した漆を刷毛で4、5回塗り仕上げる技法のことです。地場産業の輪島塗は、下地付、地研ぎ、中塗、中塗研ぎ、上塗、呂色と完全に分業制で、仕上げは呂色と塗立(花塗)があります。私は曲輪造と籃胎の2つの技法を使って素地から作り、塗り上げ、仕上げは花塗という漆本来の艶を大切に生かす技法を用います。41歳で第33回日本伝統工芸展で受賞した時、曲輪造と籃胎の特長を生かした作品が評価を受けたものと思っています。2つの技法を使い作品として完成させているのは、私だけではないでしょうか。いかに品格のあるものに仕上げるかが一番大事だと思います。
 曲輪は檜や档などの木材を柾目に沿って割り、2~6mmの厚さに製材し、それらを2重から5重に組み合わせて漆器の素地とします。それを曲輪造といいます。
 籃胎は真竹を削いで厚さ0.2mm、幅を1.5~2.5mmまで作り、器物に合わせ網代(あじろ)に編み込みます。網代の技法は三本網代、開き・閉じ網代、さらに花網代等があります。竹を素地に使うことにより、狂いの少ない丈夫な漆器が生まれます。

――竹を編んだ目が模様となって浮き出ていますね。

 これが網代の技術です。例えば幅の違う竹ひごを編んでいくと波の文様になります。竹は丈夫で軽く変形しないため、古来から使われており、正倉院の御物にあるほどです。色彩も含めて加飾の過ぎた作品にありがちなしつこさのない、飽きのこない上品さが表現できます。もとは網目を塗りつぶしていたのですが、編み目をデザインとして活かす方が面白いのではと、ひらめいたのが30代半ばのことです。

網目の波の模様は幅の違う竹ひごを編んでいる。

曲輪造の縁の部分は右のような構造に。組み上げると角度によって朱と金の面が違った表情を見せる。

人間国宝 松田権六先生との出会い

――漆芸に進むきっかけや転機はありましたか。

  中学を卒業後、和家具を作る仕事に就きましたが、体が小さくて箪笥を担いだりするのがきつく、何か他の仕事はないかと探しました。その時、輪島塗の「沈金」という作業を見て、これならできそうだと、仕事後の夜間だけ通い始めたのがきっかけでした。しばらくして弟子にならないかと誘われ、昼間の仕事を辞め弟子入りをしました。3、4時間ずっと座ったままの作業が多いのですが、それが苦でなかったので、性格的に向いていたというのもあります。
 20歳になる頃に地元に輪島漆芸技術研修所が設立され、私も師匠の勧めで2期生として入所しました。そこで人間国宝の松田権六先生と出会ったことが、大きな転機となりました。松田先生は漆器は輪島塗だけではないことを様々な形で教えてくれました。漆塗りの基本は素地が良い形・良い骨格を持っていて、そこに漆を塗っていく「いい着物を着せる感じ」と言われました。最後に沈金なり蒔絵なりで化粧し、漆器という塗り物になるわけですが、「大事なのは化粧ではなく骨格、それがあってこそ着物をきちっと着せることができる」と教えてくれました。器物のデザインをよく知って漆を塗ることが大切だと指摘したのです。40数年前のことですが鮮烈に記憶に残っています。この言葉で私の漆器に対する見方が変わり、独自の作風をめざそうと決心しました。

全国各地から来る弟子を漆芸家に育てる

――お弟子さんが作業中ですが、地元の方々ですか。

 輪島漆芸技術研修所の卒業生で、現在5人の弟子を育てていますが、輪島の人は一人もいません。全国各地から来ています。輪島塗には細かく言うと100くらいの工程があり、通常の工房では分業します。しかし私の工房は、漆芸家を育てることだと思っていますので、弟子が4年をめどに年期が明け、独立して、自分で一通りできるように指導しています。

――今後の漆器やご自身の作品へのお考えは。

 漆芸品は世界に誇れる美術工芸品ですが、現在の日本人の生活の中で使われているとは言いがたい状況です。需要がなければ大切な技術は途絶えますし、それらを作る道具や材料も衰退していきます。子供のうちから漆器の良さや美しさを実感してもらい、大事に扱ってもらうことは、子供たちの教育にもなると思います。

――そうした未来につなげるアイデアは。

 いまもずっと作業の音だけが聞こえていますでしょ。ラジオも音楽もかけません。仕事の音だけ聞きながら夢中で作業している時が、一番アイデアが出るんです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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6. 陶芸 岩永 浩氏

日本の技

インタビューインタビュー6 陶芸 岩永 浩氏インタビュー 6
陶芸 岩永 浩氏

土も釉薬も道具も自分で作る土も釉薬も道具も自分で作る

有田でも独自の染付作家として知られる岩永浩さんは、すべての材料を自分で作り、すべての工程を自分の手で行う。水墨画の濃淡を応用した染付は、繊細で温もりがあり、人気が高い。

聞き手上野由美子

陶芸 岩永 浩氏
岩永 浩氏
1960年
佐賀県有田町に生まれる
1978年
佐賀県有田工業高校デザイン科卒業
1982年
水墨画家・金武自然先生に6年間師事
1985年
水墨画の濃淡を活かした染付の器の制作を始める
1995年
東京・青山にて初個展以来、全国各地にて個展開催
2004年
ニューヨークにて海外初個展
2014年
有田の作家として初めて渋谷の黒田陶苑で個展開催

全行程に関わってこそ出る微妙な色合い

――普通は土や釉薬は購入しますが、それら材料づくりから焼成まで、全部一人でやるのはすごいですね。

 評価いただいている生地の色合いや染付の微妙な変化は、自分が全工程に関わっているからこそ出せるのだと思います。
 もともと有田焼の土は地元の泉山の陶石で作られていたのですが、明治以降はより白い天草の土に変わっていきました。私の土は、友人の陶土屋さんに特注で、泉山の風合いで作ってもらっています。
 釉薬は近郊の6種類の石を砕き、松の皮などの灰を混ぜた灰釉です。江戸時代には灰釉があたりまえだったのですが、明治時代に量産化が始まると歩留まりが悪くなり、原料調達も困難となって使われなくなりました。日本の磁器発祥の地・有田ですから、灰釉の製法は残しておきたいと思い作っています。

 配合の仕方で微妙に仕上がりが変わりますが、材料を有田本来のものに近づけることで、古伊万里のような温もりを感じる肌合いと色合いになります。
 道具は、いい具合に二股に分かれた山の枝、取り壊す古い家の建具や煤(すす)竹などを入手し加工します。
 少数ですが他にも一人で器づくりをしている作家がいて、情報交換をして励みにしています。

――実家の家業を継いだわけではないのですか。

 父親はロクロで成形し納める素地(きじ)職人でした。家に窯はなく、グラフィックデザインの道に進むつもりでしたが、中学のとき父が急に窯を作ったんです。将来的に、父が成形して私が絵付けをする構想だったようです。ところが直後にオイルショックがあり、すぐに家業を手伝わざるを得なくなった訳です。
 もともと周囲には窯跡などがいっぱいあり、子供の頃から陶片を拾うのが好きでした。工房内で粘土のカスを拾って動物を作ったり、父がロクロを挽くのを見たりしていました。仕事が速くて、粘土がシュッと締まって器の形になるのはかっこいいなと思いました。なので、自然にこの世界に入っていった感はあります。

水墨画の技法で躍動感や品格を表現


――水墨画の技法が特徴ですが、モチーフはどのようにして選ぶのですか。

 モチーフは日本古来の模様、中でも山水文様や動植物の絵が多いですが、それらだけでは飽きてしまうので、街で見た現代の意匠やカメラで撮影したものなどがアイデアの源泉となります。絵を描きながら次のアイデアを考えるという感じです。金武自然(じねん)先生に習った水墨画の技法を活かせたのも、一人窯で、従来の路線に縛られず新しい表現にチャレンジできたからでしょう。器の模様として規格はずれなものが、その躍動感や品格を失うことなく、現代の食卓の器としてバランス良く仕上がると、私の中にひとつの達成感が生まれます。

――問屋を通さず、ギャラリーやデパートに自分で直接売り込んだそうですね。

 私の器の魅力を理解してくれる人には、なるべく安い価格で手にして欲しいからです。東京のデパートのイベントで絵付けの実演を頼まれ上京した際に、作品を持ってあちこちに売り込みにいきました。今でも東京の個展でのお客さまが一番が多いです。

 あるギャラリーのご主人に『売れると絶対に真似する人が出てくるよ』と言われました。しかし、絵柄は真似できても、制作工程や材料は簡単に真似できないでしょう。作る人間のスピリットも違います。私のファンはその違いがわかる人たちだと確信しています。
聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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5. 陶芸 中尾恭純氏、中尾純氏

日本の技

インタビューインタビュー5 陶芸 陶芸 中尾恭純氏、中尾純氏インタビュー 5
陶芸 中尾恭純氏、中尾 純氏

父子で追求する白磁・青白磁の美父子で追求する白磁・青白磁の美

佐賀県JR有田駅近くの中仙窯は中尾恭純さんと弟の英純さん、そして恭純さんの長男純さんで運営している。恭純さんは白磁に色鮮やかな象嵌が特徴的で、純さんは白磁と青白磁の美を追求している。

聞き手上野由美子


中尾純 青白磁鉢
(2015年、西部伝統工芸展朝日新聞社大賞受賞作)

陶芸 中尾恭純氏
中尾恭純氏
1950年
佐賀県有田町生まれ
1971年
佐賀県窯業試験場にて人間国宝の井上萬治先生に5年間師事、ロクロ技術を継承1975年 日本伝統工芸展初入選以後32回入選
1996年
世界炎博覧会ストリートファニチャー賞受賞
2008年
九州山口陶磁展第一位文部科学大臣賞受賞
2013年
県政功労者・佐賀県知事表彰
陶芸 中尾恭純氏
中尾 純氏
1977年
佐賀県有田町生まれ
1999年
佐賀県立有田窯業大学卒業。人間国宝・井上萬治先生に7年8か月師事し、ロクロ技術を学ぶ
2009年
日本伝統工芸展初入選以後5回入選
2015年
西日本陶芸美術展西日本リビング新聞社賞
西部伝統工芸展朝日新聞社大賞受賞

注目してもらうために生み出した繊細な技

――彩色象嵌という独自な技法を生み出すきっかけは。

 恭純▼人間国宝・井上萬二先生に師事した後、最初は白磁でロクロの形だけで見せる作品が中心でした。35年くらい前のある陶芸展で、評論家の先生から「有田の者は白磁しかできんのか?」と焚き付けられ、カチンと来た者の一人が私です。実際、有田には多種多様の陶芸家がいて、目を向けてもらうには何か変わったことをやらないとと思い、磁肌をスーっと切ってみました。初めての試みは、白磁の周囲に刻んだ呉須(ごす)の青い線です。アクセント程度のシンプルな線が次第に複雑化し、古典的な亀甲紋や四方襷(よもたすき)紋をアレンジした高度なものに発展していきました。

――具体的にはどういった作業をするのですか。

 恭純▼磁肌の上に筆では出せない繊細な線模様を出すため、生地が軟らかいうちにフリーハンドで切り込み模様を入れ、ロウで際止めを施し、顔料を埋め込んでいきます。1色ごとにロウを焼き切り、それを繰り返しながら仕上げていきます。何度も繰り返していくと、仕上げの時にヒビが入ってしまうことがあるので、最近は何度もロウを焼き切らなくていいよう工夫をしています。

――完成すると、複雑な絵柄が浮き出ますね。

 恭純▼同じ色でも、切り込みのあるところとないところでは違って出ます。交差する線は機械的ですが、縦糸と横糸が絡まった感じで、複雑な絵柄が浮き出ているように見えるでしょう。線の絡み合いが微妙な視覚効果を生み出し、実際に使っている色数以上の多彩な色合いを醸し出せるわけです。トルコのイスタンブールにある教会内で、タイルモザイク画を見たことがありますか。あの視覚効果は参考になります。

中尾恭純
亀甲文彩色象嵌壺(2014年)

先輩が後輩を育てるのが有田流

――もう一つの点刻象嵌とは、どのようなものですか。

 恭純▼磁肌が柔らかいうちに木綿針を使って、表面に点刻を施し、顔料を刷り込む技法です。近くで見てください。無数の針穴が確認できるでしょう。仕上がりは絵画の点描に似ています。細かい彩色工程は根気のいる作業となります。

――息子の純さんにこの技を伝授しないのですか。

 恭純▼こんな面倒なことは他の誰もやりませんし、今後もやる陶芸家はいないでしょう。私の若い時は食べていくために、家を出て一人暮らしすることもできませんでした。だから息子には、一度家から出て窯業大学で学ぶよう勧めました。窯業大学や井上先生に学ばせてもらううちに、自然と職人の目つきに変わっていきました。有田は閉鎖的な部分もありますが、一生懸命作陶に励んでいれば、自然に先輩方が後輩を育ててくれる流れは、昔も今も変わりません。

中尾恭純
点刻象嵌花瓶(2008年)

磁器の新しい可能性に挑む

――純さんはどんな技術的工夫をされていますか。

 純▼白磁・青白磁が中心ですが、ロクロで挽いた形状を適度に乾いた状態で、表面を削り落としたり、指を使って押し込んだりすることが多いです。

――今ロクロで使われているその道具は。

 純▼ロクロを挽きながらヘラを使うのは磁器独特のものです。ヘラの材質は有田の岩山に自生するネジキ(捩木)という堅木です。50年ほどで直径が7~8㎝しか成長しないため数が少なく貴重品です。ヘラの厚みは作り手によって違いますが、私は薄く削って使っています。
 ロクロで挽いている時は、指先を土に軽く添え、ヘラで土を伸ばしながら均一にしていき、形を確認していきます。仕上がりの寸法を決めるには内側の大きさがポイントになります。内側の大きさに応じて外側を削って、仕上りに近づけていくからです。外側を均等に削っていくには、事前にトンボという道具で測っておいた方が、先の作業に入り易いです。トンボで測って線を出すと、線を目安に内側の大きさが把握できるからです。
 お皿を作る時は、土を伸ばすという感覚ではなく、反り上がった線を中心から徐々に落としていって形を整えていきます。

――第50回という節目の西部工芸展で大賞を獲られ、磁器の新しい可能性と評価されていますが。

 純▼すごく励みになると同時に、これからが大変だなというプレッシャーもあります。焼き物はなかなか思う通りにはできませんが、10個に1個くらい想像していたよりいい物が焼き上がることがあるので、それが面白いところです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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