22. 人形 岩田宏子氏

日本の技

インタビュー22 人形 岩田宏子氏インタビュー 22
人形 岩田宏子氏

47歳の遅いスタートから、独自の技を持つ工芸作家に47歳の遅いスタートから、独自の技を持つ工芸作家に

今にも動き出しそうな岩田宏子さんの木彫人形。本格的な人形制作は47歳になってからだった。遅いスタートにもかかわらず資質を磨き、伝統工芸人形展や日本伝統工芸展でたびたび入賞するほか、海外でも高く評価されている。

聞き手上野由美子

人形 岩田宏子氏
岩田宏子氏
1942年
山口県に生まれる
1989年
木彫人形制作を始める(芹川英子門下生)
1992年
第13回伝統工芸人形展 初入選
1995年
第42回日本伝統工芸展 初入選
1996年
アメリカ・カリフォルニア州 Hakone Estate and Gardensにて作品展示
1997年
アメリカ・カリフォルニア州 Foot Hill Collegeにて作品展示とレクチャー
1997年
ハンガリー・ブタペストにてグループ展
2005年
日本とEUの民間文化交流の一環としてオーストリア・ウィーンの日本国大使館にて作品展示
2004年
第22回伝統工芸人形展にて日本工芸会賞受賞
2008年
第24回伝統工芸人形展にて日本工芸会賞受賞
現在
日本工芸会正会員

人との出会いが人形作りへと導いてくれた

――人形を始めたのは遅かったそうですが。

 絵が好きで、大学は美大に行きたかったのですが親は反対でした。それでも熱意に負けて、東京藝大に受かるならと受験を許されましたが、奇跡的に二次試験まで通ったところで連れ戻されてしまいました。戦時中生まれという時代背景もあって、国家資格をとりなさいと医学検査技師の学校に行かされ、資格を取りましたが23歳で結婚。3人の子育てで絵からは離れていました。

 その頃、母がお友達と集まって木目込(きめこみ)人形を作っていて、実家に帰ると仲間に入れてもらってたんです。先生に勧められ、教室で教えたりもしていました。そんな中、創作展で受賞を重ねるうちに、「岩田さん、これだけ作れるんだったら伝統工芸をやってみては?」と勧められたのがきっかけです。その世界のことをまったく知らないまま、その方が連れてって紹介してくださったのが、第一人者の芹川英子先生だったのです。それが1989年、47歳のときでした。

 私の場合、人との出会いが作品作りに影響を及ぼしています。芹川先生もそうですし、2000年の秋山信子先生との出会いも大きかったです。重要無形文化財保持者の秋山先生を講師とした文化庁主催の研修会に参加できるという貴重な機会をいただき、乾漆について指導を受けました。

頭、手足、胴は一体となった形で彫り、衣装にも工夫

――岩田さんは木彫人形を得意としていますね。

 自分に立体ができるのかと心配しましたけど、デッサンをしていたお陰か、あまり抵抗なく木を彫ることができました。木を彫っていることがとても心地良くて、そのまま自然と続けて今に至っています。

 一般的には、木彫人形は頭、胴体、手足を別々に彫ることが多く、私もより柔らかな線を出すために、その方法で作るときもありますが、基本的には、丸太の断片から、頭、顔、手足、胴体と一体となった形で彫っています。まずデッサンに基づき全体を彫りあげ、次に時間をかけて、細かい所を納得がいくまでじっくりと彫っていきます。

――衣裳や顔はどうされているのですか。

 形ができあがると表面に胡粉(ごふん)を塗り重ねます。肌の色を出すと同時に、胴体の木地を引き締め、崩れやひび割れ防止にもつながります。その上に衣装を貼っていきます。私の独自の技法は糸貼りです。糸を何本かずつ平たく並べて貼っていき、衣裳を表現するのです。和装の人形の場合は、古い和服の布切れなどから適した柄(がら)の部分を切って、貼っていくことも多いです。糸貼りと布貼りの両方を使って仕上げることもあります。顔や髪の毛は、面相筆で描き込みます。

 着物や端切れを集めているのですが、昔の布は手に入りにくいのが悩みです。和物の人形は、時代や職業、年齢、既婚か未婚かによって、着物の形、柄、帯の結び方などが細かく決まっているのです。思った模様がないときは、布に糸をはめ込んで独自の柄を作ることもあります。本音を言えば、あまり細かいことを気にせずもっと自由に表現してもいいのではと思うこともあり、最近は新しい作風に取り組むこともあります。

アメリカでは芸術に対する自由な感覚を学ぶ

「祈り」(1993年)

「秋響」(1999年)

――海外で受けた影響も大きいそうですね。

 夫のアメリカ赴任に同行した際、裸体デッサンをやりたいとカレッジに申し込んだんです。最初断られたのですが、作品を見せたら即OKになり、「授業料も要りません」と言われました。裸体デッサンのモデルも老若男女で、芸術に対する自由な感覚は学びましたね。その姉妹校の先生から、作品を飾って講義をしてほしいと依頼をされ、学生の助けを借りて英語で講義をしました。日本では無名なのに満席で、貴重な体験でした。

 娘がドイツで音楽をやっている関係で、ヨーロッパにも友人が多く、みんな「日本の文化は素晴らしい」と言ってくださり、スイスやモナコの方が作品を買ってくださるなど、日本の工芸は国内よりも海外の方が高く評価される印象です。

――継承という点では難しさもあるようですが。

 ぜひ新しい感覚の若い方に入ってきてほしいと思っています。ただ、胡粉やニカワを扱う地味な作業を何度も繰り返したり、どの工程も根気と経験が必要です。すぐには上手くなりませんから、好きでないと続かないんですね。それでも一作ごとに、表現することの楽しさと難しさを感じつつ、次は……との思いが継続の力になっているように思います。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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21. 染織 小倉淳史氏

日本の技

インタビュー21 染織 小倉淳史氏インタビュー 21
染織 小倉淳史氏

絞りには多様性があり、表現の可能性は無限絞りには多様性があり、表現の可能性は無限

小倉家は京都の染織工芸を代表する家で、5代目小倉淳史さんの父・建亮(けんすけ)さんは、江戸時代に消えた技法「辻が花」を復元した。淳史さんは、父から受け継いだ技法と重要文化財の復元で磨いた技術で、新たな絞り染の可能性に挑んでいる。

聞き手上野由美子

染織 小倉淳史氏
小倉淳史氏
1946年
京都に生まれる
1975年
第22回日本伝統工芸展にて初入選
1988年
NHKの依頼で徳川家康の小袖2領復元
1989年
パリ展「美は東方より」(染技連)
1993年
第30回日本伝統工芸染織展にて日本工芸会賞
1998年
紺綬褒章受章
2001年
「日本の絞り」小倉家一門展(ドイツ ライス・エンゲルホルン博物館)
2005年
第39回日本伝統工芸染織展にて日本工芸会会長賞
2006年
重要文化財「束熨斗文様振袖」の欠損部分を復元
2007年
NHK「美の壺」File71 絞り染め出演
2015年
第49回日本伝統工芸染織展にて文部科学大臣賞

戦国時代の武将の羽織にも用いられた「辻が花」

――絞り染めはいつ頃から行われていたのですか。

 正倉院の御物に絞った染織があるので、奈良時代以前から行われていたと思われます。布を結んだり括ったりする初歩的なものから、縫い絞った糸の圧力で防染するものまで、すでにあったようです。絞りの始まりは、大きな布を染める際にそれ相応の大きな容器がなく、小さな容器で代用したところ布がくしゃくしゃになって、偶然まだらに染まったのを面白がったことからとされています。そこから、意図した模様に染める絞りの技術を生み出し、デザインとなっていったわけです。

──絞り染めの中でも「辻が花」とはどんなものですか。

 始めは麻の生地に簡単な模様を絞り、単色で染めた庶民的な着物でした。やがて絹にも染めるようになり、色ごとに絞って染めを繰り返す技法で、地の色と花や葉をそれぞれ違う色にする多色染めになっていきます。室町時代後期から安土桃山時代になると、花びら1枚ごと、葉脈1本ごと、虫の噛み跡まで墨で細く描き、隈どりぼかしを加えるなど繊細な表現が進化しました。金箔、銀箔、刺繍なども施され、豪華な着物として一気に隆盛し、辻が花と呼ばれたのです。女性の着物だけでなく、戦国武将の小袖、羽織、胴服としても数多く制作されました。当時のもので現存するのは300点ほどしかありませんが、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康の遺品などがあります。女性では織田信長の妹・お市、その娘の茶々、初、江や、細川ガラシャ等、この時代の上流女性は皆、辻が花を着ていました。

絞り染訪問着・玄冬の舞(2010年)

辻ヶ花訪問着・春秋(2013年)

現代の人に喜んでいただける着物でありたい

――江戸時代に辻が花が消えたのはなぜですか。

 諸説ありますが、政権が豊臣から徳川に代わり、文化の中心も大坂から江戸に移っていく中で、辻が花の流行も終わったのだと私は思います。

 現代の辻が花は、まず生地が違います。江戸時代の縮緬(ちりめん)はガーゼのように軽く薄かったのですが、だんだんと生地は厚く重くなりました。蚕(かいこ)に品種改良が加えられ、蚕や繭が大きく育つようにしたら、生糸自体が太くなってしまったからです。着物は重いほうが高級という見方もありますが、進歩かどうかは疑問です。

 染料も、昔は草木を煮出した草木染めでしたが、現代は主に化学染料を使います。草木染めは植物ごとに季節が限られるので、糸染めなら良いのですが、多色を用いる絞り染めには向きません。現代は色数も増え、この形をこの色で染めたいと思えば自由にできます。

 当時の辻が花と復活した辻が花では、技法が違うという人もいます。学者の定説では、15世紀末ころの『三十二番職人歌合』という絵巻に描かれている桂女(かつらめ)の着物の絵柄が、辻が花の始まりとされていますが、あくまでも絵なので、それも実際とは違うかもしれません。いずれにしても、現代の素材を活かして、現代の技術を活かして、現代の人が着て喜んでいただける着物であることが、何より大事だと思っています。

組み合わせで全く違う絞りが生まれる可能性も

――絵柄はどう決めていますか。

 構図は染める前に頭の中に描かれています。写実的な草花などはスケッチしますが、辻が花は定番の図柄があって、それらは全部憶えています。写真の「立浪」は典型的な辻が花の模様で、桜、楓、銀杏(いちょう)、菊、海松穂(みるほ)を用いています。着物を着る場面はお祝い事や茶席が多いので、吉祥文様を基本にしつつ上品になるよう心がけます。また、展示の美と着用した時の美は違うので、押しつけにならないよう注意しています。

──今後は絞りをどう発展させていきたいですか。

 絞り染め自体はほぼ世界中にあり、国ごとにいくつか技法が見られますが、日本の絞り染めの技法は1000とも2000とも言われ群を抜いています。技術の高さも考えれば、日本独特と言ってもいい工芸なのです。2001年にドイツで「日本の絞り」小倉家一門展を開催しました。華やかで、しかも繊細な日本の着物は海外でも高い評価をいただけることがわかりました。

 絞りには多様性があり、これからも何百通りにでも変えていくことができます。表現の可能性は無限で、組み合わせによっては、全く違う絞りが生まれてくると思って期待しています。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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20. パリ8区区庁舎における展覧会

日本の技

[財団助成事業報告] パリ8区区庁舎における展覧会[財団助成事業報告]
パリ8区区庁舎における展覧会

継続的交流を通して、双方向の学びの深まりに期待継続的交流を通して、双方向の学びの深まりに期待

本展を企画した〈技collection〉(芝本久美子代表)は、日本の伝統文化や伝統工芸品を未来に繋げていく活動をする非営利団体。2010年から毎年パリで展覧会を行っているが、2016年はパリ8区区長から招へいされ、在仏日本大使館の後援を得て開催した。こうした芝本氏らの活動を、生涯学習開発財団が評価した助成事業でもある。 展覧会では、本誌にもご登場いただいた、東京友禅の坂和清氏、陶芸の中尾純氏、Nishiura Styleの西浦喜八郎氏に、有田では珍しい女性の絵付師・村上三和子氏を加えた4氏の技と世界観が、パリの人々に発信された。

パリ8区区庁舎における展覧会 [財団助成事業報告]

主催者の①芝本氏 ②上野氏 ③西浦氏 ④金井氏らと、⑤当財団 佐藤

JAPON : Épanouissement éternel
開催期間
2016年11月28日〜12月7日
展示内容
西浦喜八郎(書)
坂和 清 (東京友禅)
中尾 純 (有田焼)
村上三和子(有田焼・絵付け)
特別展示
西浦焼

日本文化への関心が高い来場者

 展覧会期間中、来場者は約400名に上った。今回の来場者の特性として、すでに日本文化に興味があり、基本的知識がある方が多いと感じられた。セーブル美術館、セルヌスキ美術館を始めとする美術館関係者、ギャラリーオーナー、陶芸家、画家など、アート関係者が多数来場していたこともあり、作家本人への積極的な質問がしばしば見受けられた。そうした作家との対話や西浦喜八郎氏の書のデモンストレーション、坂和清氏の染色のワークショップなどを通して、日本文化への造詣をさらに深め、また、映像作品と磁器の組み合わせや若手作家の展示などから、伝統文化だけではない、日本の新しい感性にも興味も持っていただけたと思われる。

 来場者から「展覧会を継続すべき」との声を多くいただき、より深く多角的な日本文化への学びを求める方が少なくないことを確信した。

西浦氏によるデモ

村上三和子氏の絵付け

作家にとっても気づきが

 作家と来場者が直接コミュニケーションをとることで、文化的な差異、技術的な共通点の発見など、作家と来場者、双方に発見や学びがあったようだ。たとえば東京友禅の坂和氏は、完成品の着物・帯以外に染色前の模様のみの生地も展示し、制作工程を含めたより具体的な解説を行った。その結果、繊細な絵柄や色彩を生み出す技術にも多くの称賛が寄せられていた。参加者からは、染色の技法の中に、ポーセリンアートと共通する技法が見受けられるといった感想が出ていた。

 12月1日に行われた染色のワークショップには、約20名の参加者があった。フランス人はあまり細かい文様を好まず、また、柄を左右対称に作る傾向があるなど、日本人対象のワークショップとの違いがみられ、作家にとっても新鮮な発見があったようだ。

日本とフランスの雨の違いを楽しむ

 村上三和子氏の作品は、雨の中に咲く花がテーマであった。天井に映した映像とコラボレーションをするという初の試みを行った結果、フランスの雨と日本の雨の違いを、視覚のみならず聴覚からも感じ取ってもらえる場を設けることができた。

 「日本の雨は、フランスの霧雨のような雨に比べて雨粒が大きいのです」という説明を行うと、より村上作品の中に描かれている雨の表現に興味が深まり、日仏の差異を楽しむ来場者を多く見かけた。ポツポツ…から始まり、ザーッと大雨になっていく雨音。同じ「雨」でも、表情が異なることは新鮮な発見であり、村上氏の絵付けによる巧みな花と雨粒表現によって、日本の自然の一端を疑似体験する感覚だっただろう。また、絵画や映画など他の日本文化における雨の表現に関して、理解が深まったとの声もあった。

11月30日には区長主催ヴェルニサージュが開催され、多くの美術関係者が来場。西浦喜八郎氏の書のデモンストレーションが行われ、その作品は8区の区庁舎に寄贈された。また、セルヌスキ・パリ市立美術館の希望により、中尾純氏の作品「青白磁面取花器」が収蔵作品となった。

交流継続を望む多くのオファー

 今回の大きな成果の一つに、今後に繋がるオファーを何件かいただけたことがあげられる。サンジェルマンのギャラリーやロワールのお城での展覧会、隣国オランダでの展覧会などだ。継続的に日本の工芸を紹介し交流を重ねることで、日本文化の魅力の浸透にとどまらず、双方向の学びがより深まると期待できる。また、パリの陶磁器美術館の技術者と交流する提案もあり、作家同士が学び合う技術力向上の場となる可能性がある。

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19-2. 人形(博多人形) 中村信喬氏

日本の技

インタビュー19 人形(博多人形) 中村信喬氏インタビュー 19 後編
人形(博多人形) 中村信喬氏

貧しくてもその時代の最高の仕事をする貧しくてもその時代の最高の仕事をする

地元、九州北部からヨーロッパに派遣された天正遣欧少年使節の人形を作り続けている中村さん。作品はローマ法王にも献上された。人形には過去、現在の人々の祈りを現し、未来に伝えたいと話す。

聞き手上野由美子

人形(博多人形) 中村信喬氏
中村信喬氏
1957年
人形師・中村衍涯(えんがい)の長男として福岡に生まれる
1979年
九州産業大学芸術学部美術学科彫刻専攻卒業
1997年
伝統工芸人形展にて文化庁長官賞受賞
1999年
日本伝統工芸展にて高松宮記念賞受賞 
2005年
福岡県文化賞創造部門受賞
2010年
第1回金沢世界工芸トリエンナーレ招待作家
2011年
伝統文化ポーラ賞優秀賞受賞
ラ・ルーチェ展にてローマ法皇謁見作品献上
2012年
日本伝統工芸展無鑑査認定
金沢21世紀美術館 工芸未来派 招待作家
2013年
日本橋三越特設画廊個展
2015年
「菊池寛実賞 工芸の現在」展 ノミネート
現在
日本工芸会理事、九州産業大学芸術学部非常勤講師

自我を消してアイデアを導き出す

――モニュメントなどを依頼されるときは、何を作ってほしいというリクエストがあるのですか?

 いえ、ほとんどは「ここに何かを作ってほしい」と依頼されます。その場所に行って、自我を排除してニュートラルな受信体になると、そこに何が必要か分かるんです。KITTE博多に作ったピンクのエンジェルポストには3つの差し出し口があります。日本で初めてなのですが、下の差し出し口は子供用です。車椅子の人にも助かると言われました。博多から離れている恋人へ、孫からおじいちゃんおばあちゃんへ、手紙を出してほしいという願いを込めています。動物園のゴリラの作品も、土日になると、子どもたちが座って写真を撮りたいと並ぶんですよ。そういうのが大事かなと思うんです。

――伝統工芸展に出品するようになったきっかけは。

 22歳の時、京都の人間国宝である林駒夫先生からかけられた一言が転機になりました。土の人形は伝統工芸展では入賞したことがなく“泥人形”と低く見られていると思っていました。そんな時、「良いものだったら入るよ」と言われ、良い作品を作る励みになりました。

ローマ法王に謁見し作品を献上

――作品は中世の西洋風の人物が多いようですが。

 出展する人形を作るときも、誰かのためにという意識があります。九州には南蛮文化が各地に色濃く残っており、はるか昔に海を行き来した人々の勇気が、私たちの体の中に今なお生きています。天正遣欧少年使節のシリーズをずっと作っていますが、この北部九州からヨーロッパに行った少年たちで、4人の末裔の人も周りにいらっしゃいます。そこで過去、現在の人々の祈りを人形に現し、未来に伝えようと思いました。この地に育てられた人形師としての使命と感じています。

――その関係でローマ法王と謁見されたのですか。

 そのつながりも大きいです。具体的には、東日本大震災の後、美術評論家の伊東順二氏から勧められ、建築家の隈研吾さんや陶芸の人間国宝・今泉今右衛門さんらとローマのラ・ルーチェ展へ出品することになりました。その際、ローマ法王・ベネディクト16世に謁見し作品を献上することができました。

多彩で柔軟な人形の技術がいま、見直されている

――人形作りの今後はどうなっていくと思いますか。

 大学で「お人形さんね」と下に見られて悔しい思いもしましたが、時代は変わってきていますね。彫刻の先生が「どうやって作ってるの?」と聞くんです。他では廃れた鎌倉時代までの仏師の技術を、未だにぼくらは持っているわけです。木の絵付けも、焼物の絵付けもする。でかい焼物もする。多用途で柔軟な人形の技術が見直されてきて、自分たち本来の人形師の時代かなと思うこともあります。

――東京オリンピック・パラリンピックも、日本文化を発信するいい機会ですよね。

 ぼくらや先輩たちが古臭いと思っていたようなことでも、彫刻家の子が漆を扱ったりすると「かっこいい」と言われるんですね、今は。JAPANと西洋の融合も面白いと思います。人形作家と呼ばれるのを嫌がる作家もいますが、彫刻よりも人形と言った方がギャップがあって面白いと思うんですけどね。「工芸」が、ここ数年で海外ではKOGEIになったように、展覧会や対海外的には「Ningyo」というローマ字表記にしてもらってひっくり返しています。

――息子さんとお揃いのTシャツの絵柄は何ですか。

 「仕事の鬼」です。「お粥を食ってでも最高の仕事をしろ」というのが祖父が作った中村家の家訓で、それを英訳し、鬼の絵とともにデザインしています。うちは何を作るとか技法を受け継ぐわけではないんですよ。何でも作っていい。その代わり、貧乏してもその時代の最高の仕事をしろということなんです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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19. 人形(博多人形) 中村信喬氏

日本の技

インタビュー19 人形(博多人形) 中村信喬氏インタビュー 19 前編
人形(博多人形) 中村信喬氏

人のために仕事をすると作品に魂が宿る人のために仕事をすると作品に魂が宿る

中村信喬(しんきょう)さんは作品をつくるとき、自我を排し、人のために仕事をすることを心がけるという。巨大なモニュメントなども手がける中村さんの思いや背景、中村家の仕事に取り組む姿勢を、2回にわたって紹介する。

聞き手上野由美子

人形(博多人形) 中村信喬氏
中村信喬氏
1957年
人形師・中村衍涯(えんがい)の長男として福岡に生まれる
1979年
九州産業大学芸術学部美術学科彫刻専攻卒業
1997年
伝統工芸人形展にて文化庁長官賞受賞
1999年
日本伝統工芸展にて高松宮記念賞受賞 
2005年
福岡県文化賞創造部門受賞
2010年
第1回金沢世界工芸トリエンナーレ招待作家
2011年
伝統文化ポーラ賞優秀賞受賞
ラ・ルーチェ展にてローマ法皇謁見作品献上
2012年
日本伝統工芸展無鑑査認定
金沢21世紀美術館 工芸未来派 招待作家
2013年
日本橋三越特設画廊個展
2015年
「菊池寛実賞 工芸の現在」展 ノミネート
現在
日本工芸会理事、九州産業大学芸術学部非常勤講師

博多人形から御影石で6トンのゴリラまで

――まず、博多人形について教えてください。

 博多人形は土物と言われ、粘土を素焼きして白い胡粉(ごふん)を塗った上に彩色した人形です。起源については3説あります。1601年、藩主の黒田長政が築城した際に、瓦職人の正木宗七が人形を献上したとする説。陶師(すえし)の中ノ子家が起源とする説。博多祇園山笠の小堀流山笠人形をくむ白水家だとする説。実際にはそれらの職人の技術が集約されて、小さな細工人形から山笠の人形飾りまで作られる中で、現在の博多人形が発達してきたのです。

――中村さんも大きなものを作られていますよね。

 はい。山笠の人形はもちろんですが、福岡市動物園に御影石の6トンのでかいゴリラを作りましたし、福岡空港に約5m×3mのモニュメントを作る予定もあります。博多は遣唐使の時代からずっと交易拠点で、常に新しい技術が入って、高度な技術者集団が生まれました。原型師といって、長崎くんちの龍の船とか、有田の柿右衛門らの造形物の原型を、博多人形師が作っていたそうです。うちもその1軒で、材料は土に限らずなんでも使います。木で彫れと言われれば木で、絵をかけと言われれば絵で、なんでもモノを生み出すのがうちなんですね。

代々続く人形師の家系

――幼い頃からお父様の仕事ぶりを見て育ったとか。

 祖父と父は人形師、母も人形師の娘で、生まれた時から人形師になるのが当たり前という雰囲気の中で育ちました。子供には父親の仕事ぶりを見せておくのが、代々続いてきた伝統なのです。仕事の様子が目に焼き付き、自然に人形制作に入っていきます。 しかし、技術は教わりませんでした。見たものを、工夫して作り続けていけば、技術は自然に身につくものとの教えです。私の息子も、そういった環境の中で育ち、3歳の頃から私の仕事風景を見ていました。5代目になる予定の孫は現在2歳ですが、すでに仕事風景を見せています。本人に興味と才能があれば、思春期までにデッサンを徹底してやって、絶対的な立体感を身体に備えさせます。

――ご自身が子供の時、大変だなと感じたことは。

 小さい時、父から「自分や祖父はなりたくてなったわけではないがここまで来た。おまえはなりたくてなったのだから、自分たちより上に行くのが当たり前だ。できないはずがない」とよく言われました。何度やっても上手くならないので辛い時期もありました。

 でも父は死の直前、「お前の好きなようにやれ」と言って、「右手を握れ、その手に渡してやる」と父の魂を私に宿してくれました。父も祖父から右手を握って受け継いだと聞いています。私もいま息子に言っています。「死ぬ時、目に見えない物を渡すから、それまでに器を作っておけ」と。人形は、他の工芸のように使う道具じゃないので、極端に言えば要らないものなんです。見るだけで幸せにさせる。だから純粋工芸とも言われる。技術があればきれいな人形ができますが、それだけでは人を惹きつけることはできません。技術だけでは、家族や職人を抱えて食べてはいけないんです。

人形作りには己の器を磨くことが大切

――技術よりも大切な、心構えのようなものですね。

 息子は東京芸大の大学院まで行って先日も大きな賞を取りましたが、そうなると、私もそうだったけど天狗になりがちです。だから草むしりや掃除の修業をして器を磨いてきなさいと。それをしないと人の気持ちがわかりません。人形は、たとえば「この子が健やかに育ちますように」といった、その人の祈りが込められています。自分は何のために仕事をしているのか、自分を捨てて人の役に立つということを叩き込まないといけないんです。自分を評価してほしくて作るのなら自分の部屋に飾っておけばいい。誰かのために作ったうえで、芸術性が高ければ工芸としても芸術としても通用すると。

――大学では学べない、中村家ならではの教えですね。

 人に役立つために仕事をすることを意識すると、作品はガラリと変わります。作品に魂が宿るのです。

 弟子にも常に勉強しろと言ってますが、「興味がある。作りたい。だから知りたい」という思いがあれば、そのための勉強は苦労じゃないんですね。「同じ眼と手があるのに、あの人にできて自分はなぜできないのか。できるようになりたい」と思いますから。(次号に続く)

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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18. 陶芸 福島善三氏

日本の技

インタビュー18 陶芸 福島善三氏インタビュー 18
陶芸 福島善三氏

たくさんの試行錯誤から生み出される独自の作風たくさんの試行錯誤から生み出される独自の作風

17世紀頃から続くとされる福岡県の小石原焼。そこに代々伝わるちがいわ窯の16代目当主、福島善三さんは、原材料のほとんどを小石原で調達し、釉薬も独自に作成、すべての工程を自ら行う。その芸術性に優れた作品は、高い評価を得ている。

聞き手上野由美子

陶芸 福島善三氏
福島善三氏
1959年
小石原焼 ちがいわ窯に生まれる
1988年
第35回日本伝統工芸展にて入選、以降26回入選
1991年
第26回西部工芸展にて朝日新聞社金賞受賞
1999年
第15回日本陶芸展にて大賞桂宮賜杯受賞
2000年
宮内庁お買上げ「鉄釉掛分鉢」、以降3回お買上げ
2003年
第23回西日本陶芸美術展にて大賞受賞
第50回日本伝統工芸展にて日本工芸会総裁賞受賞
2004年
第14回MOA岡田茂吉賞展優秀賞受賞
2013年
第60回日本伝統工芸展にて高松宮記念賞受賞
東京国立近代美術館工芸館「工芸からKOGEIへ」に出展
2014年
紫綬褒章受章
東京国立近代美術館収蔵

貫入のない青瓷(せいじ)を創意工夫で作る

――福島さんの青瓷は薄くてシャープな感じですね。

貫入(かんにゅう:釉薬表面の細かいひび割れ)が入ると柔らかく見えるのですが、皆さんやってらっしゃいますので、逆に貫入がないのを独自にしてみようと。

例えば、焼くと粘土は約15%、釉薬は約25%縮むとします。縮みの差で貫入ができるのですが、その差をなくしてシンプルに粘土と釉薬を魅せている感覚ですね。小石原の粘土は元々細かいのですが、それをさらに濾(こ)していくと白い土がどんどん落ちて黒くなり、収縮率約25%の粘土ができるんです。さらに、そこにあえて砂を混ぜて収縮率を調整することもあります。

――「中野月白瓷(げっぱくじ)」と名乗っていますね。

このあたりは長く中野と呼ばれていて、うちの粘土山の地番も役所で見ると中野になっています。中野の粘土は独特で、鉄分が多く焼くと黒くなります。バックが黒いと色が出てくれません。そこで釉薬に藁(わら)の灰を入れます。藁ジロと言ってそれを入れると釉薬が白くなるんです。鉄分の還元焼成なのですが、一般的な青瓷の場合は水に鉄分を入れる感じ、私の技法は牛乳に鉄分を入れるような違いがあります。釉薬は5、6回かけます。釉薬が厚いほど色が白くなるのです。中国にも月白釉というのがありますが、それはもっと陶器っぽいですね。

作陶は小学生の頃から

中野月白瓷掛分鉢(2016年)

第50回日本伝統工芸展 日本工芸会総裁賞
鉄釉掛分条文鉢(2003年)

――最初から青瓷ではなかったのですか。

最初は緑の鉄釉です。その後赫釉、中野飴釉などがあり、今は月白です。一度賞をもらうと同じ作風の仕事ではあまり評価されません。賞だけが大事ではないけど、新たな表現にトライするきっかけになります。青瓷のようなシンプルに美しいものは、簡単そうで難しいです。

今までは曲げないように曲げないように作っていたのですが、今年は逆に曲げてやろうと思って、何てことするんだと批判もありますが、挑戦しています。ベースは轆轤(ろくろ)で、作ったあとに焼いて曲げるんです。ここの粘土は手びねりだと切れて作れないんです。だから伝統的に轆轤で作るしかないんですね。

――やはり子供の頃から始めたのですか。

小学校1、2年生からですね。でもうちの親は、頭でっかちになるのを嫌ったのか、大学は美大ではなく一般の大学に行けと。おかげで学生時代は遊んでばかりで、「誰々さんの個展やってるから見てこい」と言われても行きませんでした。帰ったら嫌でも仕事しなくてはいけないんだからと(笑)。

友人たちが就職活動で相手してくれなくなってから、全国の窯を見て回りました。すると、小石原は轆轤がうまいなと思って、よそで変なクセ付けるより家で習ったほうがいいと思い戻りました。

自分が良いと思うものを追求し続ける

小石原独特の飛鉋の技術を活かした文様も採り入れている。
赫釉鉋壺(2016年)

中野鉄土飴釉壺(2016年)

――小石原焼は「飛鉋(とびかんな)」や「刷毛目(はけめ)」が特徴ですが、なぜ違った作風を選んだのですか。

柳宗悦(むねよし)が「九州の山奥に中国古来の飛鉋が残っている」と言ったものだから、ずっと伝統的に続いていると思われがちですが、祖父や父に聞くとほとんどは昭和初期に始めたんです。柳宗悦やバーナード・リーチのおかげで小石原焼は栄えました。昔の小石原は「分家ならず」という掟があり窯は8軒だけだったのですが、民陶ブームで脚光を浴びたこともあってそれがなくなり、私が大学から戻ったときは40軒に増えていました。私は皆と同じことをやるのは面白くないと、伝統工芸展に出し始めたんです。飛鉋や刷毛目にとらわれないで、自分が良いものを作っていけば、いつかそれが伝統工芸になるのではないかと考えました。

祖父や親父の時代は、親方は指揮者だったんですよ。すべて分業になっていて、轆轤も専門職人だった。自分は全部一人でやっています。とにかく自分で轆轤を回すのが大好きなんですよ。飛鉋や刷毛目という前に、小石原は伝統的に轆轤の技術が高いと思っています。

――独自の作風はどうやって生まれるのですか。

お客さんの立場で考えると、同じようなものばかりより、違う作風があったほうがいいでしょう。私はいつも、試行錯誤、ムダなことをたくさんしておくんです。すべて実を採らないで種まきを繰り返す感じです。皆そうだと思いますが、9割は失敗しています。いかにムダをして、あきらめないかが肝心です。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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17. 木工芸(江戸指物) 島崎敏宏氏

日本の技

インタビュー17 木工芸(江戸指物) 島崎敏宏氏インタビュー 17
木工芸(江戸指物) 島崎敏宏氏

指物の技術は見えないところに詰まっている指物の技術は見えないところに詰まっている

金釘を使わず、木の部材を組み合わせることで家具や箱物を作る指物。組手、継手、仕口といった接合部が技術の主体だが、完成品からはこうした部分は見えない。江戸指物は、桑材の美しい木目をうまく活かしているのが特徴だ。

聞き手上野由美子

木工芸(江戸指物) 島崎敏宏氏
島崎敏宏氏
1949年
東京都荒川区に生まれる
1964年
父・征成につき江戸指物の技術修得に入る
1970年
東京デザイナー学院工芸・工業デザイン科卒業
1971年
伝統工芸新作展 初入選
1972年
伝統工芸木竹展 初入選
1975年
日本伝統工芸展 初入選
(‘91年文化庁買い上げ、‘06年宮内庁買上げ)
1984年
東京銀座・和光にて「くらしの木竹展」(以降出展多数)
2003年
東京国立博物館「孔方図鑑所銭箱」修理
2006~2009年
伊勢神宮第62回式年遷宮に用いる玉箱等木地制作
2010年
MOA美術館「21世紀の伝統工芸―世界の眼―」出展
現在
日本伝統工芸会正会員

御蔵島の桑材を長く寝かしてから使う

――指物の技術はいつ頃から始まったのですか。

 平安時代と言われていて、当時は大工仕事の一部でした。指物師が登場するのは室町時代で、公家や武家の箪笥、机などの調度品が増え、茶の湯の発達で箱物需要が増え、指物師の仕事として確立されていきました。

 徳川幕府によって多くの指物職人が京や大坂からやってきました。武士・町人文化の江戸では、京指物などの上品な色塗りよりも木目の素朴な雰囲気が好まれ、江戸指物のスタイルができ上がっていきます。大名や力をつけた財閥のお抱え職人もいたようです。

――御蔵島産の桑が作品に多く使われていますが。

 桑以外にも、欅、桐、杉など木目がきれいな木は使いますが、良いものを作るときは御蔵島の島桑を使います。御蔵島には樹齢何百年という良質な材が残っているのです。桑は一般の木材店では売ってなくて、親しい銘木店に入った時に買ってストックしておきます。といっても、使うまでに最低でも15年、20年と寝かして天然乾燥させます。常にストックしておけば、いつでも良い作品づくりに取り掛かれるという、父・征成の教えです。

 御蔵島の桑は、渋くて、粘りがあって、使ってるうちに品格が出てきます。黄色っぽい色が40年、50年経過すると、私は「博物館色」と言っているのですが、きれいな茶色になります。最初からこの色が欲しいという人もいて困るのですが(笑)。

技術に支えられた繊細で精密な工程

――制作工程のポイントを教えてください。

 まずは木取りで、木目や木のクセを見ながら、板材のどこからどの部材を取るかを決めていきます。作品の仕上がりを大きく左右する作業です。

 次に必要な部材を切り出し、平面と直角を正確に出しながら、鉋(かんな)で整えていきます。そして、部材の接合部になる、ホゾ(凸)とホゾ穴(凹)を削り出していきます。木を煮て曲げて曲線を出す技術も使っています。面と面を45度にカットし接合する、留め加工も必要です。どれも正確な技術がないとできませんが、一朝一夕にできるものではありません。

 部材が揃い、ホゾ加工が済んだら組み立てます。仮組みをしながら、ホゾの加減を0.0何㎜レベルで修正していきます。納得のいくまで何度もやります。引き出しがスムーズに動きつつピタッと収まる加減も難しく、組み立ての時に調整していきます。

 仕上げは、漆を塗って研いでを繰り返します。それによってこの光沢が出るのです。

(左上から時計回りに)御蔵桑六花弁食籠(2003年)、古彩木画箱(2004年)、
神代杉提箱(2007年)、神代彩線木画箱(1990年)

伝統を受け継ぎつつ、新たな作品づくりも

――技術はお父様から学んだのですね。

 学ぶというより、家内制手工業でやらざるを得なかった感じですね。明治期に指物の第一人者として活躍し、天皇陛下への献上品も作った前田文之助が三宅島出身で、それに続けと多くの三宅島出身者が東京に出て、指物師を目指したのです。父もその一人で、先に指物師になっていた兄の下で修業しました。兄弟でやっているとどうしても長兄の方に注目が集まりがちで、このままでは自分は日の目を見ないと思った父は、公募展に挑戦するようになったそうです。

 私も父の影響で、若い頃から工芸展に出してきました。ただ、公募展で入賞する作品と自分が作りたい作品が違うのも事実で、悩ましい点でもあります。選ぶ側は芸術性や創作性が高い作品を選びたいわけですが、私は技術があっての芸術・創作だと思っているので、自信を持って出した作品が選に漏れてがっかりしたこともありました。もちろん同じ作品を高く評価してくれる方もいますので、価値観の違いでしょう。

――文化財の修理などもよく任されていますね。

 ありがたいですね。伝統を踏まえつつ、いま作ったものが最高なんだという気持ちで取り組んでいます。また、そこから学ぶこともあります。東京国立博物館から依頼された古銭箱の修理では、寄木細工風の技術を解明し、それをヒントに新たな作品も作りました。

 私自身も変わってきている部分はあります。父と一緒にやっていたときは、父が伝統的な作風のものを、私が創作的なものを作る傾向にありましたが、父が亡くなってからは、先人の残してくれた技術や島桑を、自分がしっかり受け継いで、次世代にも伝えなくてはと思うようになりました。なかなか弟子を取るまではいきませんが、応援している方が、今回の日本伝統工芸展で新人賞をとり、励みになりました。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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16. 人形 杉浦美智子氏

日本の技

インタビュー16 人形 杉浦美智子氏インタビュー 16
人形 杉浦美智子氏

人形づくりの魅力は、人体を使いこなした表現にある人形づくりの魅力は、人体を使いこなした表現にある

杉浦さんの作品「船出」は、第63回日本伝統工芸展で「東京都知事賞」を受賞した。その作品は、人形づくりの伝統的技法である桐塑紙貼(とうそかみばり)で成形したものに、染色した極薄の和紙を貼って仕上げる。

聞き手上野由美子

人形 杉浦美智子氏
杉浦美智子氏
1954年
山梨県富士河口湖町に生まれる
1996年
重要無形文化財保持者 秋山信子氏に師事
1999年
伝統工芸人形展にて「秋想」が文化庁長官賞受賞
2004年
日本伝統工芸展にて「想風」が日本工芸会新人賞受賞
2008年
日本伝統工芸展にて「おぼろ月夜」が日本工芸会賞
2010年
伝統工芸人形展にて「くるくる」が朝日新聞社賞受賞
2011年
東日本伝統工芸展にて「モメント」が宮城県知事賞受賞
2014年
伝統工芸人形展にて「想」が文化庁長官賞受賞
2016年
日本伝統工芸展にて「船出」が東京都知事賞受賞

人間国宝 秋山信子先生との出会い

──ずっと人形作りに取り組んでいたわけではなくて、一時期中断されていたとか。

 小さい頃から人形が好きでしたが、最初はあくまで趣味の延長でした。OL時代のことですが、石膏で作っていたため、重いし壊れやすいし大変でした。その後、石塑粘土が商品化され、カルチャー人気にも乗って粘土人形づくりの講座がたくさんできたのです。私もそこで教壇に立ちました。ですから「カルチャースクールで教えてます」とは言ってましたが、人形を生業にするとか、人生をかけて打ち込むようなものではなかったです。

 本格的に取り組もうと思ったのは、人間国宝の秋山信子先生との出会いからです。子育てが終わって「また作りたいな」と思って行ったのが秋山先生のところで、先生の人形にかける姿勢を見て、人形を作ることの意味や価値を感じました。「人形を作っています」と言っていいんだと。桐塑を始めたのもそこからです。

桐塑紙貼「想」(2014年)

木芯桐塑紙貼「くるくる」(2010年)

理想の形をまずデッサンで決めていく

──一般的には遅いスタートで、苦労はありましたか。

 私は美術系の大学を出ていないので、当初はデッサンをせずに人形を作っていました。でも10年程前、展覧会で審査員から酷評されたことをきっかけに、デッサンをしてみようと思いました。デッサンをすると空間内に立体がどのように収まっているかがわかって、そこに私の作りたいものが、形としてどう存在すれば良いか見えてくるんですね。その中に人体を当てはめていくのが私の手法となりました。

──理想の形を先に決めるのですね。

 はい。たとえば足ですが、人間の足は歩くために2本に分かれています。でも、そのまま形にすると不安定で落ち着きがないのです。そこで服を着せたり、つま先立ちにしたり、2本の足をくっつけて1本にしたりすることで形をきれいにおさめます。

 以前は、まるで生きてるようなリアルな人形が良いとされていたのですが、人形とは言っても、そのままの具象表現ではなくて、私は変形と言ってますけど、見た人がより共感しやすい形で表現する方が、現代においては人の心を受け止めやすいと思っています。

 顔にもまゆ毛は入れません。眉を描くと急に現実的になってしまいます。目もほとんど線の表現で、そのほうが見る人の気持ちを投影できるんです。

──作品のモチーフは女性が多いようですが。

 女性はスカートや着物で足の形をおさめやすいのもありますが、一般的に女性の方が表情が豊かで面白いので、見た人に何かを感じてもらえるようにと考えると、女性の方が表現しやすいですね。でも、これからは男性もやってみようかな。

見る人の思いに寄り添える人形を

──制作工程で特に気をつけている点はどこですか。

 人形は顔が命と言われたりしますが、桐塑の一粒で変わるので、付けたり取ったりします。表情で喜怒哀楽を作り込むことはしないんですけど、首から肩にかけてのかしげ方で表現しています。

 表面の仕上げは、一般的には雛人形に代表される胡粉塗りが多いのですが、少し固く冷たく感じるので、温かみのある和紙張りを、私は採用しています。人形に直接彩色はしないで、和紙を染めて貼っていくんです。肌には3重か4重に貼ります。糊を付けてかぶせて、動かし動かししながら貼っていく。だから立体面に平面の和紙が貼れるんです。それは和紙でないとダメなんです。

 空気中の毛くずが着いて、濡れてる時はわからないのが乾くと見えるんです。いっきに2重3重に貼ると乾いた後とれなくなるので、貼っては乾かしてを繰り返し、1体に2カ月はかかります。仕上がりの質感が微妙に違うので、私の感性と合う和紙を探すのも一苦労です。

──東京都知事賞を受賞された「船出」も、「繊細な作業を積み重ねた所からの優しさ」と評されていますね。

 ありがとうございます。女性の伸ばした右手には「前に進む強い意志」、胸に当てた左手には「航海の無事を祈る心」を込めた作品です。航海は人生。見る人が思いを重ね、それに寄り添っていける人形を、これからも作っていきたいです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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15. 陶芸 寺本 守氏

日本の技

インタビュー15 陶芸 寺本 守氏インタビュー 15
陶芸 寺本 守氏

作品のベースは、変化する自分の生き様作品のベースは、変化する自分の生き様

茨城県笠間市に窯を置いている寺本さんは、笠間の形式にとらわれない気風が自分に合っていると話す。上絵に銀彩を施した躍動的な作品や、クリーム色の縞壺など、味わい深い独特の世界を表現している。

聞き手上野由美子

陶芸 寺本 守氏
寺本 守氏
1949年
神奈川県生まれ
1975年
九谷で松本佐一氏に師事
1976年
笠間市に築窯
1980年
日本伝統工芸展初入選/茨城県藝術美術展優勝
1996年
茨城県立医療大学モニュメント制作
1997年
ハンドル国際陶芸イベント(フランス)審査員及び講演
2004年
ニューヨーク・ギャラリーGenで二人展
2007年
第2回菊池ビエンナーレ展入賞
フランス国立セーブル美術館「TOJI」展
2009年
バンブー鍛金展 ニューヨーク一穂堂
2010年
伝統工芸陶芸部会展 日本工芸会賞
MOA美術館21世紀の伝統工芸–世界の眼– 奨励賞
2015年
日本伝統工芸展入選(7度目)

常に変化している作風や技法

──家業とは関係なく陶芸を始めたそうですね。

 父親は船会社に務める商社マンでした。若いころは学生運動が盛んで、それで捕まったりもして、社会性の高い仕事は自分には無理だと。焼物をやるチャンスをくれた人がいて、漆もやりたかったけど焼物でいいやと。

──あまりこだわりがないのですね。笠間に来たのはいつ、どういう理由でなんですか。

 最初は益子を紹介されたのだけど、広くて作家も多くて、向いてないなと。笠間は歴史はあるけど親分のような窯はなくて、自分でもやれそうだと感じたんです。1年だけ石川県の九谷で轆轤(ろくろ)や絵付けを習った後、笠間に窯を作りました。1976年、27歳の時です。外から来た窯が多く、私は50番目のよそ者でしたから、形式に囚われることなくやれました。笠間焼は関東ローム層から出土する良い陶土があって発展したのですが、現在は採取できず、全国から取り寄せています。それもあって、たまたま笠間に住んでいる人が焼いてますよという感じで、自由に作品が作れる気風が培われていますね。

 私の作品も、伝統的な技法をベースにしているわけではなく、自分の生き様がベースになっています。だから作風は常に変化していて、何十種類と変えて作っています。ほとんど同じものは作りません。

──作品作りで心掛けていることはありますか。

 意外と人の意見を無視しないことです。自分では出来が悪いと思っていても、『これは良いですね!』と言われ、びっくりすることがあります。そうした時は無視しないで反省材料として取っておきます。以前、伝統工芸展などに出品せず、個展だけで新作を発表していた時期があるのですが、ある人に「このままじゃ残っていけないよ。また出したら」と言われて出すようになりました。言われなかったら出してないでしょうね。

──その日本伝統工芸展の締め切りが近いですが。

 もう出品作品はできています。それを聞いて今日見に来る方がいます。東日本で初めての陶芸専門の美術館・茨城県陶芸美術館の金子賢治館長です。

種類の違う窯を作品づくりに活かす

──こちらには登り窯もありますが、火を入れると一週間くらい焚きつづけるとか?

 5日間ですね。焼く物の種類や目的によって、電気窯、ガス窯、登り窯、穴窯を使い分けています。登り窯は山の斜面に作ることで、炎の熱を余すことなく利用し、少ない薪で多くの作品を焼き上げることができる効率的な窯です。1番下の部屋の温度を約1300ºCまで上げると、余熱で2番目の部屋は約1000ºCまで上がります。その2番目の部屋の横から薪を入れ、1300ºCに上げていきます。この繰り返しで3番目、4番目の部屋も同時に焼き上げることができます。若い頃は3人くらいで焼いていましたが、最近はアルバイトをお願いして、6人体制の3交代でやっています。

──窯の違いによって作品はどう変わりますか。

 登り窯は、薪の灰が作品に付着することで変化が出ます。また窯の中は酸素量が非常に不安定になるため、同じ釉薬を使っても色合いが違います。電気窯やガス窯は、磁器などきれいな物を焼くのに適しています。穴窯ではいろいろと遊んで試行錯誤しています。

工房内には、1人の作家のものと思えない多彩な作品が並ぶ。

4連の登り窯。奥は単独の穴窯。

茨城県陶芸美術館の金子賢治館長(右)も寺本ファンの一人。

銀彩は経年変化で味わいが出る

銀彩鉢(2012年)

銀彩花器(2012年)

──不思議な銀彩はどうやってできるのですか。

 純銀は約962ºCで溶けてしまうので、高温の窯で焼くと流れ落ちてしまいます。そこで、生地に釉薬をかけて高温で焼いた後、青釉をかけ低温で焼きます。その上に銀彩をして焼き付けます。銀彩部を手で触れると表面に凹凸を感じますが、これは上絵として釉薬の上に銀彩を施した証拠です。上絵である以上、銀は次第に酸化して「いぶし銀」と呼ばれる少し黒ずんだ状態になります。その変化も味わってください。

──人気があっても同じものは作らないのですか。

 作ってほしいと頼まれて作ることもあるけど、お金が儲かるから作るというのは嫌なんです。デザインは全部違います。本当は同じ技法は2年以上やりたくないんですよ。とはいえ、新しい試作はダメなものが多くて、壊してます。先日も4トンダンプ1台分の壊した陶片を出しましたが、人の意見に耳を傾けつつ、新しいものにチャレンジしていきたいです。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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14. 染職 平山八重子氏

日本の技

インタビュー14 染職 平山八重子氏インタビュー 14
染職 平山八重子氏

機(はた)のリズムと一体になって織り上げる機(はた)のリズムと一体になって織り上げる

微妙に違う同系色の糸を何色も使って、独自の世界を織り上げる平山さん。その作品は、まるで波や風、季節の息吹を表現しているかのようだ。国産の繭を使う糸づくりからお話しを伺った。

聞き手上野由美子

染職 平山八重子氏
平山八重子氏
1948年
東京杉並区生まれ
1972年
人間国宝の故・宗廣力三先生の下、郡上八幡にて3年間修業
1975年
杉並の自宅で染織を始める
1976年
第23回日本伝統工芸展にて初出品の「水紋」が入選
1977年
日本伝統工芸染織展に「せせらぎ」を初出品
日本工芸会賞
2004年
民族衣裳文化普及協会 きもの文化賞
2009年
第56回日本伝統工芸展に「空と風と」を出品
日本工芸会奨励賞
2011年
東日本伝統工芸展に「かなたへ」を出品
東京都知事賞

ほか受賞多数
現在、日本工芸会正会員。工房「萌(ほう)」手織教室主宰

「織は人なり。人は心なり」の言葉に導かれて

――糸づくりから自分でやられるのですね。

 織っているうちにこだわるようになったんです。国産の繭は3%しかないのですが、輸入のものはやはり大味な感じがしました。私が今使っている繭は群馬や山形のものですが、蚕を飼って繭を作っている人を知っている安心と、そこからつながって来たものを自分が受け継ぎ、デザインから織り上げるまですべて自分ができることに喜びを感じます。

――織物の道へはどのように入ったのですか。

 高校時代、自分の中の何かを捜していました。短大を出てレース会社に就職して、昼はOL、週5日は夜間部の学生をしていた時期に、宮中の装束なども織られていた高田義男先生から、郡上紬の布を見せていただいたのが始まりです。『日本の織物』という分厚い本を片手に、仲間と織物の産地や織手を訪ねて歩きました。

 そうした中、ラジオから流れてきた宗廣力三先生の「織は人なり。人は心なり」という言葉が、私の心に深くしみわたり、先生が住む岐阜県の郡上八幡に行くことを決心します。2年待てるなら内弟子入りを許可するとの了解をいただき、アルバイトをしながら、きもの学院に通いました。着物通学の厳しい学校で、着付けはもちろん、着物の歴史や作法、和裁の運針まで習い、その後の下地として役に立ちました。

自然の草木で染め、自然の表情を作品に込める

――独自のデザインはどうやって生まれるのですか。

 郡上八幡での3年間は、技術を学ぶだけではない、かけがえのない日々でした。自由時間には、お気に入りの場所で、流れる雲や夕焼けで紫色に染まる空、群生するネムノキなどを、飽きることなく眺めていました。1976年に日本伝統工芸展へ初出品した「水紋」や、翌年に日本染織展に出品した「せせらぎ」は、郡上八幡で触れた自然が作品に活かされています。

――数学的才能もないと複雑な柄を表現できませんね。

 よくそう言われますが、何千本の糸すべてを計算ずくというのではなく、この色が何割で次が何割といった、体に染み込んだ感覚でやっている感じです。

――草木で糸を様々な色に染めるのは楽しそうですね。

 嵐の後とかドングリがいっぱい落ちてるでしょ。自転車で走っててもつい止めて拾っちゃうの。庭に生えてるドクダミやクサギなどでも染めます。ドングリはきれいな紫っぽいグレーに染まるんですよ。でも毎回同じ色にはなりません。織りもそうで、同じ機で同じ柄を織っても違った表情になるのが面白いところです。

――機で織るのは根気や体力もいりますよね。

 こんな文明が発達した世の中になっても、機織りは基本的には原始時代からそう変わりません。郡上八幡にいたころは若かったので、朝から夕方まで食事以外はずっと機の前に座っていました。

 今はその頃ほどの集中力や体力はありませんが、やはり「織は人なり。人は心なり」ですから、機の前に座るときは、気分や体調のムラが織物に表れないよう、身体に1本芯が通ったような状態を心がけています。

 そして無心で織っているうちに、機の音のリズムと自分の身体のリズムが合って、一体化して織り上げていく感覚の時は、いい仕事ができている気がします。

聞き手:上野由美子
古代オリエントガラス研究家。UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)考古学研究所在籍中。2012年国際日本伝統工芸振興会の評議員。ARTP副団長として王家の谷発掘プロジェクトに参加(1999年〜2002年)。聖心女子大学卒業論文『ペルシアガラスにおける円形切子装飾に関する考察』、修士論文『紀元前2000年紀に於けるコア・ガラス容器製作の線紋装飾に関する考察』ほか、執筆・著書多数。

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