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生涯学習講演会レポート

多元的共生社会における生涯学習を考えるシリーズ第27回

なぜ私たちは『じゃ、どうすればいいの?』と思ってしまうのか。

講演者:佐伯 胖(東京大学名誉教授)
日 時:2021年11月20日(土)14:00~16:00
会 場:オンライン開催(Zoom)

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はじめに~タイトルに込めた思い

なぜ私たちは『じゃ、どうすればいいの?』と思ってしまうのか。このタイトルにしたのはですね、何かしらありがたい話を聞くと、「フムフム…なるほど」となるんですが、その後に「じゃ、どうすればいいの?」という問いが出てきちゃう人が多いからなんですね。こちらはWHAT、WHYの話をしていくんですが、聴いている側はHOW-TOがないと落ち着かない気分になっちゃう。それで、「こうしたらいいんです!」とHOW-TOを提示すると、「よくわかりました! 勉強になりました!」となるんです。今日はみなさんに、こういった思考のクセがしみ込んでいることを自覚してほしいんですね。「そういわれてみれば、『じゃ、どうすればいいの?』って問いにいっちゃうな。そう思ってしまうのはいいことなのかな?」と疑問を持ってもらいたい。それが今日のお話です。

なぜ私たちは『じゃ、どうすればいいの?』と思ってしまうのか

なぜそうなるのかを私なりに考えてみると、明治以降の日本は、西洋のいいところを取り入れることを得意としてきたんですね。これは西欧文明の輸入、「どうやるのか」というマナーの輸入なんです。開国したとなると、途端に西洋の恰好をして鹿鳴館でダンスを踊る。ケロリと「これからはみんな、こうするんだ」とスイッチを切り替える。方法だけを取り入れるのが非常に得意なんですね。そこにあるのは「WHAT、WHYは偉い人が探求してくだされば結構です。私たち凡人は、HOW-TOが分かればよい」という、まさにHOW-TO 思考とでもいうものです。

加えて、HOW-TO思考が加速する教育もしてきたんですね。当時は東大でも外国人の教師ばかりで、日本人は「これからはどうするのか」という答えを聞いて、それに従うということをやってきた。今でもね、学校の学習指導要領は「どうするのか」という指南書になっているんです。先生方は教科書と一緒に買わされる指導書に沿って授業を行っている。おそらく指導書がないと「どうやって教えたらいいんですか」という問い合わせが入るんじゃないかと思うんですね。先生方自身が、そう教育されてしまっているんです。

HOW-TO思考の背後にあるもの

HOW-TO思考が優先される生活の中では、「ちゃんとやっているか」が常に問われていると感じるんですね。だから、PDCAサイクルというという言葉が大事にされちゃう。計画(Plan)して、実行(Do)して、評価(Check)して、何らかの対応 (Act)をする、それで改めて計画を立てるという一連を念頭に置くようにしつけられちゃっているから、自分はちゃんとやったかなと考えるし、誰かに評価される感じにもなる。評価が頭から離れなくなるから、「じゃあ、どうすればいいの?」とセルフチェックをしてしまうんです。

背後にあるのは「まじめ」主義です。「まじめにやれ!」「やるべきことをキチンとやれ」「遊び半分は許されない」という声のなかでね、つい、まじめにやっているかと自問自答してしまう。やるべきことがちゃんとわかっているかと問い、わからなかったら、じゃあどうやればいいのかを人に聞く、というのがしみ込んでいるんです。

遊び心とまじめさは同時に並存する

かの偉大な哲学者ジョン・デューイは著作『How We Think』(1909年)のなかで、「遊び心とまじめさは同時に並存するし、それこそが「心の持ちよう」としての理想である」と言っています。そのあとには、「「遊び心」だけに走ると「ふざけ(fooling)」になり、「まじめさ」だけに走ると苦役(drudgery)」になる」と続けます。学校教育についても、苦役になっていて学ぶことの楽しさが封じられていると書いているんです。学校教育に多大な影響を与えたデューイが『How We Think』を出したのは、1909年ですよ。私はこれを100年前に書いたのかと仰天しましたね。

デューイは、「遊び心」と「まじめ心」は一体となるのが本来だといいます。遊び心から生まれる行為が遊び(play)であり、まじめ心から生まれる行為がしごと(work)だと。固定の目的がないのが遊びで、目的があるのがしごと。しごともただ、「やれ」と言われると苦役になりますが、目的の善さが理解できて、できるようになっていくという可能性が見えてくれば、苦役にはならない。藤井壮太棋士のように、無我夢中になって、しごとで才能を発揮している人を見るとね、苦役ではなさそうですよね。楽しい、もっとできそうだという遊び心がそこにはあるんです。Workに遊び心が入ってくると、ワクワクしてくるんですね。

まじめな遊び−シリアルプレイ

教育学者のセルマ・ワッサーマンは、「遊び心」と「しごと心」の混然一体となった、まじめな遊び、シリアスプレイ(Serious Play)が大事だと言っています。ノーベル賞級のしごとをした人の幼少期を調べると、みんなすごく遊べる空間を持っているんですね。学校に行かずに、自宅の裏庭にいろんなものを持ち込んで実験をしていたライト兄弟が、ゆくゆくは飛行機を発明するというように。そこでワッサーマンは、授業のなかにもまじめな遊びが必要だと、「まじめな遊び5原則」を提唱するんです。

【ワッサーマンのまじめな遊び5原則】

  • 遊びが「生成的(generative)」であること。
  • 未知のリスクを伴うこと。
  • 「失敗」というものは存在しない。
  • 自律的(autonomous)であること。
  • からだを動かすこと。

―『Serious Play in the Classroom: How Messing around Can Win You the Nobel Prize』(1992)

まずは、遊びが生成的、つまり正解ではなく問いが生まれてくることが第一条件。それから未知のリスク、想定外になることを覚悟するということですね。失敗はないというのは、思った通りにならないことが新たなチャレンジとなるから。自律的というのは、何をどうするかは自分たちで決める。それから、頭で考えるより先に、まずやってみるということですね。

まじめな遊びで開かれる知-天然知能―

まじめな遊びで開かれる知性って何なのかと考えたときに、それを見事に提言しているのが、郡司ぺギオ幸夫氏の『天然知能』(講談社・2019年)です。郡司さんは、知能には人工知能と、自然知能と、天然知能の3種があると言います。

人工知能は、コンピューターのもつ知能。膨大な過去のデータを徹底的に整理する知能だから、まったく新しいものは出てこないことになります。将棋AIはどんどん強くなるけれど、藤井壮太棋士はAIが想定しない手を思いつくということですね。自然知能は、いわゆる「自然科学」で解明されうる「客観的」な事実を得る知性。できないことも、想定しちゃうんです。数学のなんとか予想も、証明できるはずという想定で探求する。証明できないという結論も含めて、最終的に決着がつく(正解が存在する)ことを想定しています。

それに対して、天然知能は決着がつかない知性、肯定と否定が両立する知です。例えば、見たことがないはずなのに知っているデジャブ、「あのときこうしたら救えたかもしれない」など、どこかで加害者意識が消えない東日本大震災の被害者、それから入試結果発表を見る受験生。合格発表のときには結果は決まっているのに、「どうか合格していますように」と祈らずにいられない、それはもう人間の業のようなものです。金子みすゞの詩に『雀のかあさん』がありますが、人間の子供につかまってしまった小雀のかあさんの気持ちは、わかるようでわからない。わからないけど、わかる。わかりたいけど、わかってしまいたくない。そんな、どこまでもせまってくるような余韻があります。これこそが、決着がつかない天然知能です。

伊藤亜紗の「マイナスの接触距離」と、柴田武の「フレルとサワル」論

美学者の伊藤亜紗氏は『手の倫理』(講談社・2020年)のなかで、「さわる」と「ふれる」の違いから、「マイナスの接触距離」という提唱をしています。傷口に「さわる」というのは、なんだか痛そうな、相手の同意は想定されない一方的なかかわりですね。一方の、傷口に「ふれる」は、看護師さんから「ちょっと痛いですよ」というような声掛けがあって、多少痛くても我慢しようと思うような、相手の同意が想定される相互的なかかわりになる。つまり、「ふれる」は相手の心のなかにも入ってくる、これが「マイナスの接触距離」だというんですね。

これに対して、日本語教師をしている私の教え子から疑問を呈する声が上がったんです。「さわる」は人からみた行為で、「ふれる」は物同士も可能だと。しかも表面的でごく短時間の行為であるから、相手の中に入り込むようなものではないのではないかと、いうんですね。そこでですね、言語学者の柴田武氏が書いた「フレルとサワル」という論文で、改めて整理をしてみたんです。この論文は、とにかくサワルとフレルの使い方を延々と調べて、分類しているんですが、柴田の結論はこうです。サワルは、主体・客体の双方(もしくは一方)がヒトのときに使用。フレルは、サワルが使えるときも、使えないときでも使用可能。サワルは、ヒト的接触、フレルは物理的(客観的)接触である。これ、伊藤亜紗の説明とは違っていますよね。

柴田の「フレルとサワル」論をじっくり読み、伊藤亜紗が言いたかったことを想定しながら、「ふれる」と「さわる」を佐伯流に再解釈すると次のようになります。まずひとつめのポイントは、主体の行為意図のあるなしで、行為意図がない場合はサワルという言葉は使えない。サワルと言えば、「行為意図アリ」というコトに焦点がある。ふたつめのポイントは、「どうなるのだろう」という期待と不安のこもった思い、これをDND(DO-NAN-DARO)配慮と名付けることにしますが、それが主体にあるかという点。「どうなるのか」「どうなったのか」が主体の思いの中にあるか、あるいは、読み手の視野の中に生じることが期待されているときに、「フレル」が使われる。

重要なのは「ふれる」にあるDND配慮が主体の側にあるか、もしくは読み手が客体に対してDNDが関心事になっているかということで、「さわる」にはDND配慮が欠落していることがポイント。だとするとDNDという不確かさの中での“信頼”が、フレルに入っていることも了解できる。その点で、伊藤の考察は正しいというのが、いろいろ考えた末の、私のDND考察です。

「じゃ、どうすればいいの?」からの脱却は可能か

ということで、今日の結論です。「じゃ、どうすればいいの?」から脱却するためには、常にDND(DO-NAN-DARO)という問いを持ち続けながら、対象やしごとにかかわってみる。やってみて、感じてみて、「決着」はなるべく後回しにする、ということです。

「DO-NAN-DARO」と問い続けている状態が遊び心ですから、決着をつけようとしない。むしろ、決着がつかないことを追い求めていく。暫定的な決着をつけるしごとにおいても同様で、「DO-NAN-DARO」という思いを持ち続ける。それが、遊び心的なしごと心、つまりシリアスプレイですね。シリアスプレイは、天然知能の知性です。わかるようでわからない、わからないけどなんかわかる、すべてわかってしまうということはあってはならない気がする、決着がつかないもの。ということで私の今日の話はここで終わりです。みなさんの心の中に、DNDが沸き起こっているとありがたいなと思います。

Q&A

【Q】HOW-TO思考の話で、日本には、茶道や武道といった型から入る学びがあると思いますが、その辺りはどうお考えですか。

佐伯:確かに日本には型から入る、まず真似をしてというやり方がありますが、「わざ」の研究で有名な方によると必ずわからなくなる時期がくるんだそうです。どこまでいってもわからないというのを持続できる状態こそが、わざが身についてきた状態なんだとか。なので、実はわざの話にもつながっているんですね。

【Q】社会の様々な変化がある今、学校や先生が変わることの難しさを感じています。そのような状況の中で、保護者としてどのように子どもと関わることが必要だと思いますか。

佐伯:もう、先生という言葉がよくないね。一人称でも先生って言うでしょ。やっぱり指導しなきゃと思っちゃう、これを変えるのは大変なこと。親御さんもね、ちゃんと子供を育てているかと思わない方がいいね。それよりも、「自分は今日、何回、子供に驚いたかな」という問いをしてみてください。子供に驚く、ということね。

【Q】答えだけを求める人を無理やり変えるのではなく、どのようなアプローチをすればよいのか教えてください。

佐伯:遊び心ですよね。そういう人にはちょっといたずらしてみる。自分も相手も、くすっと笑えるような場面に引き込む。肩の力の抜けた「なんかおかしいよな、これって」って言い合える関係性をつくりだしていきたいですね。

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